浮世絵学01/落款(しゃらく)/2007中野三敏(1935-2019)/写楽(江戸人としての実像)、中公新書、写楽≠素外、その根拠 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/78420
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1982-04-29現在(2023-01-02更新)

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人)

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


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G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  Guide

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R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/88211

 

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V浮世絵学 ミニ動画     Mini-film, about 5 minutes 

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,239項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 

2018 SAKAI gankow

 

2020 SAKAI kunio

 

 
*ファックス、使えません。
 

〇浮世絵学01/落款(そがい)_写楽(しゃらく)実ハ俳人・谷 素外_1969谷 素外(1734-1823)/著作・年表 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/11052

 1969.10.16『”写楽”実は俳人”谷素外”』(『読売新聞』昭和44年10月16日号)

〇2007中野三敏(1935-2019)/写楽(江戸人としての実像)中公新書

サンピン先生といえば、早稲田大学の系譜、写本、和本に精通し、近世文学・洒落本を大成している。

山口 剛(1884- 1932)    *やまぐち たけし 江戸文学の碩学 

森 銑三(1895 – 1985) * もり せんぞう、近世写本 

反町茂雄(1901-1991)  *そりまち しげお、弘文莊主人  

暉峻康隆(1908 – 2001) *てるおか やすたか

野間光辰(1909- 1987)       *のま こうしん

中村幸彦(1911 – 1998) *なかむら ゆきひこ、終生、師事した

山沢英雄        *川柳

鵜月洋(1918 – 1965)、

石丸久(1921- 1999)、

丸山季夫 

三敏先生の戯作研究は、洒落本の最高水準にある。

著名な近世文学の先生方でも、文化勲章は埒外であったが、2016、三敏先生、文化勲章を受章している。

・浮世絵は専門外なので、多少、私が異見を加えてみることをお許し戴きたい。と云っても、サンピン先生、一昨年2019、お亡くなりになってしまった。

 写楽=齋藤十郎兵衛 これが大前提で論旨が展開している。齋藤十郎兵衛の没年(「辰(文政3<1820>年)3月、行年五十八)が判明しているので、この時点で存命の人すべて、素外、蔦屋、北齋、抱一、文晁、政美、豊廣、豊國、三馬など、除外している。1820(文政3):58歳 1794(寛政6):26(歳)

齋藤十郎兵衛(1763-1820)(58) 没年、行年より算出

(雁註)冩樂=齋藤十郎兵衛とすると、没年、行年が判明しているので、1794(寛政6)、26歳で描いたことになる。余りに若過ぎないか。冩樂の絵は、若い人では描けない。哥麿の画本虫撰でも、36歳の作品である。

 三敏先生、先ず、最初に写楽が齋藤十郎兵衛、また十郎兵衛が写楽であることを証明しなければならない。

(疑問1)、そもそも前提の齋藤十郎兵衛は、「写楽齊」で、「東洲齋」ではない。齋号が違う。つまり、写楽ではない。

(疑問2)まず、十郎兵衛が、浮世絵を描いていたという画証が必要

(疑問3)何故、能役者? が浮世絵を描く必要があったか。

(疑問4)何故、寛政6.05-寛政7.01だけ活躍して、その後、中止したのか

 (疑問5)「能役者」、これは申楽の演者でなく、漢語で「役者(画)を能くする」意である。

他の研究者が、三敏先生に反論を提出している。

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(反論)1970(昭和45)瀬木慎一( 1931 – 2011)/写楽、学芸書林 

  この記述(月岑説)は、江戸八丁堀に住すという例の三馬の補記から想像をたくましくして、八丁堀に中屋敷とあった蜂須賀侯御抱え能役者中の江戸住五人の末席を占めていた齋藤重郎兵衛に、謎の画家の正体を強引にあてはめた、まったく無根拠の妄想という他ない。(中略)町の探偵マニアがおこなった今日の推理作家、顔まけのとてつもない超推理である。

(雁註)三馬補記* 齋藤十郎兵衛という名前は書かれていない。 *1810s(文化)補記されたか。

[1790s南畝/本文[1941]20-2]

[1941大曲駒村/浮世繪類考20-2]

    寫 樂     

是また哥舞伎役者の似顔を寫せしが、あまりに眞を畫んとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず。一兩年にして止む。

三馬按、寫樂號東洲齋、江戸八丁堀ニ住ス。僅ニ半年餘行ハルゝノミ。

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(反論)1999(平成11)大沢まこと(1940s- )/東洲斎写楽、郁芸社

1)方角分の写楽の項は、すべて小字で書かれているので、著者冨三郎にとって、この人物は必ずしも重要な人物ではなかった。(三敏・答)画工名、本姓を[空欄]。態(わざ)と[空欄]にした。

2)その活字化に際し、中野は「写楽齊」としているが、正しくは「齋」とすべきである。

(三敏・答)原本が「齊」。

3)「写楽齋」とあるのを、中野は紊(みだ)りに「写楽」と読み代えて、恣意的にこれを東洲斎写楽の情報としている。

(三敏・答)手控え的な写本の場合、しばしば見得る事例。

4)なぜなら、「写楽齋」と号する画工は別に存在する。それは楢崎宗重氏の「写楽伝研究の現段階」(昭和61.1.10、銀座松屋「謎の浮世絵師写楽展」図録所収)に紹介された二点の絵暦*(えごよみ)で、竹田憲治郎氏の解説に、一点は寛政元年作とされ、今一つは寛政二年作とされ、そのいずれにも「写楽齋自画」とある。これが方角分に言う写楽齋であり、その正体は絵暦の絵自体が物語る通り、素人風の画技しか持ち合わせない、「うらぶれた浮世絵師」と思う。

(三敏・答)この二点の絵暦を確認している。

(雁註)絵暦という術語は江戸時代にない。大小(だいしょう)である。 

5)よって、方角分に言う写楽齋は、東洲斎写楽の情報とはなり得ない。

6)あるいは東洲斎写楽自身、この写楽齋の存在を薄々聞き及んでいて、それと混同されぬよう「写楽」とのみ号して、「齋」字を避けたのかも知れない。

(大沢)凡そ写楽の二字さえ記されておれば、尽く拉し来たって、一度は俎上に載せる痴があり、愚があった」と記して、わざわざ安永五年(1776)刊の句集「左比志遠里」(さびしおり)に、大和(やまと)泊瀬(はつせ)の写楽号の句、二首を提示して、その痴愚をたしなめておられる。このあたり、大沢氏の判断は、まことに首肯し得るものである。

(雁註)号としても特異の写楽、これは俳諧の号であるが、画号の「写楽」と同一と考えるのは普通である。「写楽」の号は、錯誤するような、有り触れた号ではない。素外は、もともと上方出身の人物。


 

サンピン先生、頻りに三点セット(雅号、住所、本名)を強調しているが、

1)1818瀬川富三郎3(1780s-1833c)/江戸方角分では、

雅号(欠) 号写楽齊 地蔵橋 本名(欠)

 昨日(2021-07-29)、新書版の本書を二時間ほどで、読んだ。サンピン先生は、次の二資料を解説。

1)1818瀬川富三郎3(1780s-1833c)/江戸方角分(えどほうがくわけ) 930項目 

*これは大正期、また明治期から、著名な人名録(分野別、地区別)であった。林若樹所蔵、その前は達磨屋伍一。現在、国立国会図書館がネットで公開している。

 (雁註)編者は三代目瀬川富三郎、一般に「ぐにゃ富」。サンピン先生は「いや富」「にく富」、これは二代目瀬川富三郎であり、三代ではない。

1818瀬川冨三郎/江戸方角分_五十音順_907項目OK

雅号(欠) 号冩樂齊  地蔵橋  本名(欠) 

(雁註)これだけでは、全く情報として不十分。雅号が[空欄](欠)本名も[空欄](欠) これでは採用できない。

(昭和52)江戸方角分(翻刻)/近世風俗研究会(花咲一男・主宰)

江戸方角分 合印(あいじるし) 業分契(ぎょうぶんけい) 學者 詩人 画家 初夏 本歌師 連歌師 俳諧師 狂歌師 戯作者 浮世画 篆刻家 古人

 サンピン先生、竪列に地区、横列に合印、竪横の一覧表にして、小計、合計、総数を網羅している。

見せ消し(みせげち):朱書きで追記

 たしか、サンピン先生、かつて新聞に「写楽齊、地蔵橋、齋藤十郎兵衛」の項目をスクープで紹介していた。

 しかし、本書の江戸方角分 *「写楽齊」と写楽、これは全く別人である。なぜなら、写楽の齋号は「東洲斎」である。

(三敏・説)富三郎は、(冩樂について)知っていたからこそ、敢て[空欄]にするという処置を施さざるを得なかった。

無足格(むそくかく)、(十郎兵衛が)家禄を持たず扶持米(ふちまい)のみを支給される下級武士

大名でも、役者、芝居狂いで著名な人物がいる。

有馬頼僮(1714-1783)(68 ) よりゆき 久留米藩

柳沢信鴻(1724-1792)(69) のぶとき 大和郡山

松平宗衍(1729−1782)  (52) むねのぶ 松江藩

1818江戸方角分以前、南畝などは、1790s(寛政)同時代であるから、写楽について知っていたはずである。しかし、知っていても、実名を出すことを憚(はばか)られていたからに違いにない。身分制度でも、素外は庶民・町人であるから、役者絵を描いても全く問題にならなかった。サンピン流に言うと、享保期、雅(公家・武家)と俗(庶民、町人)で区別すると、役者絵だけでなく、土佐派・狩野派が雅で、浮世絵全てが俗と見做され、卑しめられていたように考える学者が多い。しかし、実際のところ、庶民の娯楽としての浮世絵は、お構いなしで、物凄い量の美人画(吉原)、役者画(歌舞音曲)が毎日、発売され、庶民は楽しんでいた。雅の武家階級でも、栄之などは、美人の浮世絵を専門に描いていた。浮世絵は、俗だからという理由で、低く、卑しめられていたが、実際、江戸を代表する絵画は、浮世絵以外になく、市場を独擅(どくせん)していた。

浮世絵学01/1818(文化15=文政1)瀬川冨三郎3(1780s-1833c)/江戸方角分 落款(狂歌師など)_酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/11173

素外は最年長である。また俳諧の大師匠である。このため、重政、赤良(南畝)、蔦屋(重三郎)、長喜、哥麿、爲一、政演、春英、政美、三馬など、写楽が誰であるのか知っていたが、書くことを遠慮したのである。従って、寛政後半、素外の石碑(養福寺境内)*これは意味深長である。

知るものは 月のみと 我 獨(ひとり)笑(え)み  

(雁註)この真意は一体、何を意味しているのだろう。年月が特定できれば、更に明確になる。

2)1844(天保15)齋藤月岑/増補・浮世絵 この経緯 *これは浮世絵学を研究している人は既知の事実である。 

 サンピン先生、大田南畝全集で「浮世絵考証」という書物を活字化している。いま手元にないが、「考証」の文字は、南畝の自筆本にあるのだろうか。私は、当時、これを見て、妙だと感じた。通常、「浮世絵類考」であって、これが正しい。つまり浮世絵の考証だけでなく、浮世絵+類(その類い)の両方を書き留めている。純然たる浮世絵師以外の絵師も多く含んでいる。

サンピン先生、子興(しきょう)と誤読している。通常、俳名で「しこう」と読んでいる。

南畝、邦教、京傳、三馬…

(疑問)、写楽の実名が十郎兵衛ならば、既に南畝ほか、同時代の人々が、写楽の江戸人としての実像を知っていたに違いない。50年後の月岑(げっしん)が、態々、写楽=齋藤十郎兵衛と結論づける必要はない。

1833(天保4)英泉・補記/浮世絵類考 五代目白猿、幸四郎、半四郎、菊之丞、富十郎、廣治、助五郎、鬼治、仲藏の類を半身に画たるを出せし也。」

1844(天保15)齋藤月岑/増補・浮世絵類考  *サンピン先生の三点セット(本名、住所、身分)

写楽 天明寛政年中の人 俗稱齋藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者也。廻りに雲母(きら)を摺たるもの多し。

(雁註)何故、態々、月岑は写楽が武士(阿波侯の能役者)であることを公表したのであろうか。

浮世絵学01/落款(諸家)浮世絵類考(うきよえるいこう)9848項目 五十音 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

http://www.ukiyo-e.co.jp/1016      

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〇2007中野三敏/写楽(江戸人としての実像)、中公新書

 という訳で、サンピン先生は江戸方角分の齋藤十郎兵衛=写楽、として論を進めている。

別人ならば、立論は成立しない。十郎兵衛が浮世絵を描いていたという確証がない。と同時に写楽であったという論証もない。

そして、能役者が何故、浮世絵を描いたのか、納得できる説明がない。

 十郎兵衛の没年は(過去帳で調べると)、「辰(文政3<1820>年)3月)であるから、この時点で存命の素外などを、すべて排除している。これは十郎兵衛を写楽と同人としての仮説である。別人となると、成立しない。

(雁註)あまり雅とも思えないが…

(雁註)春章の両腕? 小さ過ぎないか。

 

(雁註)酒井藤吉/写楽、実ハ俳人・谷素外 発表

 

 

 

 

 

A=B  これは共通項のXが不可欠である。A=X  B=X ならば、A=Bであり、比較的、簡単である。

A≠B   これは、同定するより、遥かに難しい。しかも、没年で判断すれば、殆どが該当する。

 例 A=そがい 谷素外(1734-1823)(90) 

   B≠とよはる しげまさ しゅんしょう ろこう あから じゅうざぶろう ゐいつ まさのぶ しゅんえい、まさよし                                                                      とよひろ とよくに すべて別人。何故なら、生没年が一致しない。

文耕(1718-1758)   獄門  *馬場〜 講釈師、実録作者 書き本(かきほん)を大量に作成。1758(寶暦8)、郡上の百姓一揆を講じた

素外(1734-1823) *龍の宮津子(たつのみやつこ) 一陽井(いちようせい)

豊春 (1735-1814)(80)    *とよはる  歌川~ 一龍齋(いちりゅうさい)の齋号

重政(1739-1820) *花藍(からん)

春章(1743-1792)(50) *酉爾(ゆうじ) 旭朗井 *享年50歳と判明したので、生年が16年、後ろに移動。

盧朝(1748-1836)   *重政門下

赤良(1749-1823)(75)*あから  四方~   *大田南畝 ナンポ *重政は赤良に江戸玩具の江戸二色の解説を依頼している。

*(昭和6)判取帳(稀書複製)、米山堂 安田文庫 南畝→豊芥子→大幸堂→安田文庫  これは抜粋

 全文は大妻女子大学文学部紀要に翻刻

重三郎(1750-1797)(48) *じゅうざぶろう 蔦屋

長喜(1750s-1792-1809-) *子興(しこう)と同人 

哥麿(1750s-1806) *うたまろ  蔦重と叔父、甥の関係か

爲一(1760-1849) *爲一(ゐいつ)号は素外によって命名された

政演(1761-1816) *葎 後、戯作者・京傳として活躍。

春英(1762-1819)(58) *しゅんえい 勝川~ 

政美(1764-1824) *蕙齋 *けいさい 

豊廣 (1765-1829)(65) *とよひろ   歌川~  一柳齋(いちりゅうさい)

豊國 (1769-1825)(57) *とよくに    歌川~     一陽齋(いちようさい)

三馬(1776-1822) さんば 

伍一(1817-1855) ごいち   達磨屋  珍書収蔵家   待賈(たいこ)堂

 豊芥子(1799-1861)(63)     石塚豊芥子 鎌倉屋芥子屋(からし) 豊島町(としまちょう)

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関根正直(1860-1932)(73)   有職故実

林 若樹(1874-1938)  *酒井好古堂版・浮世絵の投稿者、支援者

*1920(大正9 )江戸方角分(達磨屋藏印、文政元年七月五日、竹本氏写来)若樹文庫 *文行堂→林若樹

三村竹清(1875-1953)  *酒井好古堂版・浮世絵の投稿者、支援者

濱田義一郎(1907-1986)(80) *川柳研究、江戸文藝

サンピン先生は、否定の根拠として、齋藤十郎兵衛の没年(没年は「辰(文政3<1820>年)3月)、この時点で存命の人は総て、除外される。

〇1794-1795寛政06-寛政07、歌舞音曲記録 ここでは伊原/歌舞伎年表を含めて、総ての歌舞音曲を取り上げた。

寛政06.01-寛政07.01/歌舞音曲_外題_88項目

1794-1795寛政06.05-寛政07.01、一ヶ月ほど上演しているので、初日は〇〇座、次の日に△△座、三日目に◇◇座と次々と見ることが出来る。

連番の後ろに〇を付した外題を浮世絵にして描いている。

何かお気付きの点がございましたら、お知らせ下さい。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator 浮世絵鑑定家

浮世絵・酒井好古堂 http://www.ukiyo-e.co.jp/ ご案内

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14

電話03-3591-4678 携帯090-8171-7668 



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