浮世絵学04/懇話会67 1987古田武彦/倭人伝を徹底して読む 九州王朝、支那學 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/40406
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1982-04-29現在(2024-11-28更新) 

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人) 

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


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G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  Guide

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R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) Copy and Handmade reproduction 

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V浮世絵学 ミニ動画     Mini-film, about 5 minutes 

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,401項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 

2018 SAKAI gankow

 

2020 SAKAI kunio

 

*ファックス、使えません。
 

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文化藝術懇話会(67)

時: 2019-06-27(木)18.00-20.00

所: 淡路町ワテラス・レジデンス2011号(パーティR)

人: 古田武彦/倭人伝を徹底して読む(大阪書籍)

・古田武彦(1926-2015)先生は、中国史書の日本古代史研究により、紀元前から700年代までの王朝は九州王朝。

・2019.7.9-8.9特別展三国志/東京国立博物館

・金印「漢委奴國王」委は周(しゅう)文の金石文字、つまり篆書で、禾本科(いね)が頭こうべ、を垂れている姿。「お辞儀の人々」として、委奴(ゐど)と表現した。

57:金印 漢委奴國王 「委奴」は篆書の象形文字で解読できる。

 委:曲がる意。しかし、朝貢した人々が全て背中が曲がっていた訳ではない。これは御辞儀の風習がなく、従って言葉もなかった。このため、御辞儀を禾本科(かほんか)の稲が頭こうべ、を垂れる姿、その人々としてイ偏を付けて、倭とした。倭は、元、委である。

 委奴國は、古代支那の漢が呼んていて、委奴國自身は何と言っていたのか分からない。分からないので、書いていない。

107:帥升(すいしょう) 帥は纒め役か。升が人名。國名は分からない。

倭(わ)は古代支那側が呼んだ名称である。

240:卑弥呼(ひめこ)、邪馬壹國(やまいちこく)

*日本書紀では、神功皇后を造作している。卑弥呼の名前を大義名分上、書くことはできないからである。

*古田武彦先生が紹熙本を見つけ、「邪馬壹國」(やまいちこく)とあるのを確認した。この紹熙本、世界に一箇所だけ、宮内庁書陵部にある。これ以前、紹興本が流布していた。紹興本は「邪馬臺國」(やまたいこく)である。しかし、臺(だい)は魏臺(ぎだい)のように王朝を表す。他国の名前に使うことは無い。

600(開皇20):多利思北孤(たりしほこ)(隋書俀國) たい

姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)

*有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭

阿蘇山とあるので、九州である。近畿圏に阿蘇山はない。

*邪馬壹國は、北九州と南朝鮮に及ぶ海洋民族国家(沖ノ島を御神体)。

日本(にっぽん)の名称:既に九州王朝で使っていた。その後、奈良王朝が踏襲した。

*日本書紀では聖徳太子を造作している。これは多利思北孤と書けないからである。

*「北孤(ホクコ)」と原文にある以上、これを尊重すべきである。「比孤(ヒコ)」と原文を改定することは史料批判上、全く根拠がない。

◯浮世絵学04/外題(三国志展、東博)三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

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酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂 http://www.ukiyo-e.co.jp 文化藝術懇話会

[浮世絵学]Mobile: 090-8171-7668

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14

電話03-3591-4678

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◯1987古田武彦/倭人伝を徹底して読む+

◯1987古田武彦/倭人伝を徹底して読む+

1 文化藝術懇話会(67) 時: 2019-06-27(木)18.00-20.00 所: 淡路町ワテラス・レジデンス2011 号(パーティR) 人: 1987 古田武彦/倭人伝を徹底して読む、大阪書籍社 ◯漢籍(分類)経 史 子 集 ◯五経 順序: 詩 書 易 禮 (樂) 春秋 また易・書・詩・礼・楽・春秋 1 易経BC1700-BC1100 周 BC403-BC222 本来の名 易 また周易 2 詩経BC770-BC222 西周から春秋 3 春秋BC722-BC481 4 書経(尚書) 最古の記録 殷周・春秋・戦国BC403-BC226 戦国以降・秦の穆公まで?-621BC 5 礼記*127-200 周秦の古書 前漢の戴聖 鄭玄ジョウゲン *らいき ◯四書 論語 大学 中庸 孟子

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◯1987 古田武彦/倭人伝を徹底して読む、大阪書籍社 はじめに *1984.04-1986.03、大阪朝日カルチャーセンター(中之島の朝日新聞ビル)24 回の講演をまとめた 序(p.3) 陳寿 大海という言葉、山島に居す *出雲風土記、 *天皇家は後代の亜流(三番手の後継者)、 *三国志の朝廷の語 倭人伝 これ以前の史書に書かれている。

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第一章 「三国志」以前の倭(ゐ)と倭人 「三国志」以前の倭と倭人

一  倭人の出現 (p.7)

・東方の夷 火を通さないで生で食べている。(礼記)文身(刺青)

・皮服の民 東夷、皮服す(尚経) 海曲、之を島と謂う。島に居るの夷。(尚書)

・日の出るところの人々 海隅(かいぐう)、日を出(い)だす。率俾(そつぴ)せざるは罔(な)し 率俾:中国の天子に臣下として仕える

・倭人の鬯草(ちょうそう)貢献:お酒にひたした香り草(論衡)。屠蘇も、その一種か 成王の時、越常、雉を献じて、倭人暢を貢す(論衡)。BC1115-BC1079 *越常は南蛮

・東夷の音楽:成王の時(BC1000 頃)、昧(まい)は東夷の楽なり。叔父である周公に助けられので天子の礼楽を以ってせしむ。

・漢書の倭人:楽浪海中、倭人有り、分れて百余國を為す。歳時(さいじ)を来たり献見すと云う(漢書) 班固/漢書、王充/論衡 同じ太学で学び、王充は五つ年長 貢献と朝見(天子の都)は意味が違う。

・倭人と東鯷人:東鯷は、東の端っこの意  倭人:銅矛、銅戈、銅剣圏

二  箕子(きし)と燕(えん)(p.18)

殷墟が発掘され、架空ではなくなった。箕子は詩を読んでいる。従って、架空ではない。

・箕子韓国の成立 始皇帝(BC246-BC210)の二世胡亥(BC209-BC207)三世嬰(えい)(BC207) (古田)箕子韓国と名付けた。朝鮮半島の南半部に箕子韓国、北に衛氏朝鮮。

・倭は燕に属す 倭人の領域は、朝鮮半島の南岸部および、かなり奥地まで入った南半部に及んでいる(山海経)

2

三  倭人の居所(p.24) 光武帝の金印:志賀島から出た金印 倭人を見た班固と王充: 四  新たな課題(p。26)

・後漢書の信憑性:後漢書は三国志の後、同時代資料ではない。しかし、班固は、三

国志にない新事実も書き加えている。

・堯(ぎょう)舜(しゅん)禹(う)の時代:周はBC1000-BC300、殷はBC2000+BC1000。夏は先殷期

・縄文中期の日中交流は?:BC10000 前後、(BC14000、神奈川大和市上野(かみの)遺跡) ・井戸尻の縄文土器:殷・周の時代に三本指の神、山梨と長野の境の井戸尻にも、同じような、更に古い三本指の神

・縄文時代の楽舞:能登半島で土製のお面。その倭人が夏の時代、舞踊を行った。事実とは言えないが、保留して記憶。

・東夷の中国大陸侵入:後漢書の事柄も、人間だけが中国に入り、文化は入っていないということはありえない。

第二章 日本の文献にみる倭

一  新たな倭国の出現(p.35) ・チクシかツクシか 現地ではチクシ

・邇邇芸命 古事記のニニギノミコト 筑紫に遣わされたのは主流、直系の子孫でない。本国の天国に兄、祖母の天照もいる。

・天津日高日子穂穂手見命を襲名する 穂穂手見命は高千穂の宮に伍佰捌拾(580)歳坐ましき。代々、同じ名前を襲名。

・波限建(なぎさたける: 天津日高日子波限建

・鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命

・地名が先か、説話が先か:産屋(うぶや)が出来上がらぬ内に生まれた 実ハ地名が先 説話は新しく、地名は古い7

・天皇に姓はないか:天(あま)という姓 鵜葺草葺(うがやふき)という職業による姓

・職掌が姓になる:地名、職掌 鵜葺草葺に似合わぬ素晴らしい息子

・四兄弟の旅立ち:鵜葺草葺の職掌が下落していった。

・神倭伊波礼毘古命:かむやまといわれひこ 倭:本来「ヰ」の発音。 井原、井尻 このヰがワに替わる(7 世紀末-8 世紀)

・倭と大和:弥生の近畿の人々は東鯷人。倭は、九州の分流。神武~開化の九代の天皇名中の倭、大倭はチクシの意。

二  「記」「紀」以前の倭(p.49)

・大国主説話:倭が出てくるのは古事記。日本海が舞台。奈良は出ない。宣長は倭を「やまと」と呼び、奈良ととっている。

・天孫降臨の真相:大国古事記は筑紫̶出雲̶越、倭國へ上る 天照が大陸の金属器を使い、大国主命の主権を奪った。 対馬海流では出雲から筑紫へ、海流は遡(さかのぼ)る(千歳竜彦さんの示唆)

・山田のかかし:かかし、稲を守る神

・大物主説話か?:大国主は一人では自信がなかった。故(かれ)、其の大年神… 海の光らしてやって来た。

・宣長の誤謬:御諸山は三輪山だから、この神は大物主神と解釈した。「其の」は直前の名詞。チクシの倭

・筑紫の青垣:倭ハ筑紫(ちくし)。福岡県鞍手郡小竹町に亀山神社(大歳大明神)、福岡の東の方。

・倭の多元化:倭を大和と決めてはいけない。他にも多元的にある。

三  伊場木簡の若倭部(p.62)

・部民一元論に反対する:◯◯部 木簡は荷札。地名を全て部民に当てることは出来ない。

・神麻績(かみ・おみ)部と神人部:神は「渺としてとして遠い淵源をあまた含んでいるもの」

・浜名湖の倭:若倭部(わかわべ)(わかいべ)、近畿に出てこない。筑紫の倭ではないか。

四  常陸風土記の倭(p.68)

・記紀の相違:倭部天皇 日本書紀の日本武尊は東北地方へ出かけ、やたら征伐する。 景行天皇は古事記では九州へ行っていない。日本書紀では九州を巡回し遠征している。しかし筑前には立ち寄らない。 追加、また削除

・大橘と弟橘:大橘比売命「倭より来る」、筑紫の倭の意。大橘を妃としている倭武天皇は日本武尊ではない。

結論 3

・日本武尊は天皇ではない:帰途、三重県で不慮の死を遂げた。景行天皇がいたので、日本武尊は天皇扱いに出来ない。

・倭王武の常陸巡行:宋書の倭王武が筑紫にいる。倭王は雄略に一致しない。

・筑紫と常陸の関係:

1 対馬海流、大陸から銅器・鉄器が最初に入ってくるのは越の国、また信州を通って群馬に入ってくる

2 利根川の上流が群馬。関東の下流域を襲撃した。

五  出雲と播磨の倭(p.76)

・出雲経由越行き:常陸の倭が筑紫の倭、出雲の倭は、それ以上に筑紫の倭。

・官位の暴落:出雲風土記(八世紀半ば)の文責署名者がずらりと臣。これまで臣は最高位の姓(かばね)。 額田部臣(六世紀の古墳から)

・「姓」本来の性格:神武の家来(大九米命)が目のところに入れ墨をしていて、不思議がられている。 神武自身も入れ墨をしていた。若倭部、額田部。倭は筑紫の倭。 ・混在する倭:播磨風土記は倭が、第一次の倭と第二次の倭が混在 六 初期天皇家の若倭と大倭(p.81)

・大和盆地の若頭:九州の倭国の別国、大和における倭の新しい主である。

・倭よりの使者:使大倭という官職名

・倭人伝の「大倭」なり:筑紫なる中心権力からの派遣者、としての大倭。

・初期天皇家は筑紫の分家:橿原近辺にしか陵墓をおけなかった。九代目になって、盆地内の固めが終わった。若倭の意。

第三章 倭人伝以前の倭(p.87)

一  松本清張(1909- 1992)説批判

・松本清張氏の提議:倭人(日本列島)と倭國(朝鮮半島)は別

・漢文の基本ルール:名前の次に出生地(郡県名)を書く。

・松本氏の盲点:魏志の帝紀に「倭国女王卑弥呼、使を遣わして奉献す」

・読み方の順序:「韓は帯方の南に在り、東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す」、陸地で接する意。 韓、濊、倭は通貨制度がなく、通貨の代わりに鉄を使っていた

・414 好太王碑の証言:新羅は高句麗の好太王に、「倭が国境にやってきて脅かしている」と。倭の五王。 倭人とは倭国の人である。結論

・なぜ倭人伝なのか:

1) 楽浪海中、倭人有り(漢書、地理志)…と云う。周代の話

2) 倭人鬯草を貢す(論衡、巻八)

3) 倭人は帯方の東南大会の中に在り(三国志、倭人伝)

・新羅国王は倭人:瓠公(ここう)、本、倭人。初めて瓠(ひょうたん)を以て腰に繋ぎ、海を度りて来る。 脱解、本、多婆那國の所生なり。其の国は倭国の東北一千里に在り。*これは短里

・多婆那國の舟:東鮮暖流 倭国は博多あたり。

二  東夷伝と濊(わい)伝にみる倭(p.103)

・東夷伝序文:長老説くにに、異面*の人有り、日の出ずる所に近しと。

*異面:鯨面、顔に入れ墨 卑弥呼が景初二年、大夫難升米らを遣わして魏の明帝に朝献す。陳寿は誇りをもって、倭人のことを記している

・濊伝のリアリティ:耆老(きろう)言う、風に遭い吹かるること数十日、東のかた一島を得。上に人有り。言語相 暁(さと)らず。その俗、常に七月を以て童女を取りて海に沈む。*人身御供の少女を海に沈めた

・女神の島:宗像(むなかた)の沖ノ島 *昔は女の島、

三 女神

・水蛭子の話:項中復面有り … *シャム双生児

・海、北道の問題:海の北道 東鮮暖流(西享子さん指摘) 号して道主貴と曰ふ:海の北道の安全を守る神 沖ノ島から出土した宝物は九州王朝か近畿王朝か

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第四章  帯方の東南大海の中に在り

一  帯方の東南(p.111)

・帯方の地:後漢の終わり、楽浪郡から帯方郡が分かれた。 好太王の碑:倭不軌侵入帯方郡 帯方郡は高句麗と倭の争点 316 西晋は、匈奴の侵入により滅亡 このため、空白地帯となった。 沙里院から塼(せん)が出てきた。ソウルより遙かに西北。帯方太守

・張撫夷の墓があっても中心ではない。 海の彼方に漁陽を望めるところだったか。つまり中心であるとは言えない。

・帯方の東南

1) 韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍ち東し、其の北岸、狗邪(こや)韓國に到る。

2) (対海國)南北に市糴(してき)す。

3) (一大國)亦、南北に市糴(してき)す。

4) (末盧国→伊都国)東南陸行。

5) 《伊都国→奴國》東南。*傍線行程

6) (伊都国→不弥國)東行

7) 《不弥國→投馬/國》南 二 大海(p.117)

・尚書にみる海: 四海 なぜ四になるか分からない。中国にとって海は東と南 海とあれば、東海を意味していた。周王朝は、黄河中流域を本拠にしていた。南海は後に認識が拡がった ・海を知っていたか 海を知らない人もいた

・四海と海隅 尚書→魏志 長老云う、異面の人々。

・粛慎と日本の交流は:粛慎は北方民族で沿海州あたりを本拠としていた。 周の武王が殷を滅ぼしたので、粛慎氏、来賀す。

三  今使訳所通三十國(p.126)

・使訳:前漢・武帝の時、張騫を西域に派遣し、名馬を求め、河源を窮めた 我が魏朝は、周王朝以来の神秘の国、東の倭の使者を到着させた。 「使」(し)を遣わす

・通ずる関係:中国の天子の家来になる。 後漢が禅譲という名で滅ぼされ、曹操が天子の位について魏朝を名乗った。後漢の献帝は殺されたとの噂。 公孫氏は、魏朝に従う必要はないと。

・大夏之属に通ずる:史記に張騫の西域の大宛列伝。現在では雲南省。当時は外国。 数万人の捕虜を得て、農業生産を増大させる。 倭人伝の場合でも、中心国一つに「通」ではなく、三十國と国交をもった。

・差錯問題:(差錯)さかく、入りみだれる、ごっちゃになる意。三十ヵ国が勝手に帯方郡へ朝貢した訳ではない 実際、倭国は女王が軍事力で、各國の統制をとっていた。統一権力と軍事力をもっていた。 三世紀は、出雲支配の時代ではなく、国ゆずりで、筑紫中心の勢力が確立していた。

・卑弥呼は三十國の代表:卑弥呼が上表分を書いた。貢物を付けて送った。文書に三十國の名前が書かれていた。

・三十國の國名:狗奴國は呉朝に朝貢していたか。漢が滅ぼされ、魏朝になったが、公孫淵は魏朝を認めていない。 三角縁神獣鏡、呉の工人が日本列島へ来ている。

・狗奴国と倭国の対立:難升米は率善中郎将(魏の官職名)を与えられている。 拝仮(はいか) 詔書と黄幢(こうとう、旗) 狗奴国は迂闊に邪馬壹國を攻められなくなる。魏を相手にする。 狗奴國は魏朝とは通じていなかった。

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四 「狗邪韓國、倭地」論(p.142)

・倭地五千里:海の上に散らばっている全領域。12,000-7,000(帯方郡から狗邪韓國)=5,000(倭地)

・任那日本府の問題:朝鮮半島の南岸部に倭地があり、それが狗邪韓國であった。

第五章 里程論(p.147)

一  里単位の歴史  二里余、短里で180m

・赤壁の戦い:長江は支流の流れで加速される。このため、下流に行くほど速くなる。 川幅、400-500m(冬の乾季)、800m(夏の増水季)

・魏・西晋朝/短里説:一里=77m 周髀算經によると、76-77m(谷本茂)

・秦・漢の長里:文章の一部分だけ抜き出すと、間違えることがある。

・古宝への復帰:周髀算經(BC1000)、実際の星の運行を反映している。

・長里、再び:316(建康4)、匈奴の劉曜が西晋を滅ぼし、東晋(劉氏)を起こす。漢の高祖、光武帝に復帰。

二  史料対比の実証(p.157)

史記の中の長里と短里:夏・殷・周は短里、秦・漢は長里、魏西晋は短里、東晋に漢の長里。 三国志を里程ぬきで読むことは出来ない。周の天子、方5,00 里。楚、方、5,000 里で、天子と同じ本拠。

三  南蛮伝の中の倭人伝(p.162¸)

・夷蛮伝の里程:倭人伝は里程列伝ともいえるほど、里程記事がある。曹操は天子ではない、太祖。 倭人伝の里程は、大嘘。<白鳥(東京帝国大学)

・内藤(京都帝国大学)共通の認識>

・「韓地、魏領」問題:帯方郡治~女王國、一万二千余里。(帯方郡治~狗邪韓國が七千里+五千里)

・「二つの序文」問題:陳寿の保護者

・張華が失脚したため、宙に浮いてしまった。その後、陳寿は没する。 張華を追いやった荀勗(じゅんきょく)が政敵に倒され、范□(はんいん)が恵帝に上奏した。 このため、三国志の序文はない。しかし、陳寿は夷蛮伝に二つの序文を書いている。書に称す… 実際に倭国へ赴き、見て、記録した。これが三国志全体の結論ともいうべきもの。

四  里程列伝(p.172)

・大宛列伝の里程(史記):張騫は大夏に行き、黄河の源を窮めた。 禹本紀の崑崙なる山は何処にもない。

・余里の理解:

五  陳寿の上表文(p.176)

・三国志の災難:正史は完成すると、天子に奉呈し、上表文を述べる。 亡くなった陳寿の家に三国志がある。正史として採用していただくよう上表文を出した。 天子から詔が下され、官人が筆写した。

・諸葛亮著作全集:中国の歴史は煮ても焼いても食えない。司馬遷は史記の中で復讐している。 諸葛亮は、魏と対立した敵将。その事績の編纂をした。若い陳寿が選ばれた。よほどの見識を買われた。 著作全集を完成し、上表文の全文を収録してある。 ・上表文の精神:三国志に上表文を書けなかった身代わりか。

・陳寿の上表文:諸葛氏集目録 … (三国志・蜀志、諸葛亮伝第五)

第六章 記された国名

一  夷蛮の固有名詞(p.185)

・倭人伝の固有名詞:

・帝紀(魏志)の夷蛮固有名詞:民族名称、また中国式一字名

・夷蛮伝の固有名詞:魏晋では、天子を指す臺(だい)を夷蛮に使わない。

6 ・韓伝の固有名詞:同じ名前が二度、出てくる。文字の音読、現代の漢和辞典の読みと、かなり近い。

・倭人伝の背景:卑弥呼の倭国は「鉄」の国。(弁辰)其の瀆盧国、倭と接す。*倭地が朝鮮半島内にあった

二  九夷問題(p.194)

・「爾雅」の(李巡)九夷: 爾雅(じが)、もと周代に完成したか。周代の地名か。(後漢書より古い。後漢書にない)

1、玄兎 2、楽浪 3、高麗 4、満飾 5、鳧更(ふこう)6、索家 7、東屠 8、倭人 9、天鄙 隠岐島は島前と島後。島前の中の島は海士(あま)村、ここが天国(あまくに)の原点か。地名に天日(てんぴ)

・倭は真名井の「ゐ」:井原、井尻 倭人な「ゐ」人という読み方、後に「にんべん」を付した。 対馬の浅茅(あそう)湾の北岸に和多都神社。そこの天の真名井という井戸。 弥生の地名というより、縄文期の海人族の二つの拠点(隠岐島、対馬)

・九夷は実在した:九つは、周代の地名、氏族名。 後漢書

・東夷傳、□夷、于夷、方夷、黄夷、白夷… *抽象的で自在の地名、氏族名ではない 「論語」子罕(しかん)、「子(孔子)、九夷に居らんと欲す」。孔子は九夷という言葉を知っていた。

三  倭人傳と韓伝の国名(p.199)

・記された三十の国名:国名が出てくるのは、倭人傳と韓伝だけ。全体としての意味を掴む。 通じている三十国、壹與(いちよ)の上表文に国々の名前が書かれていた。 ・韓伝に現れた国名:実際に通って確認した国々が書かれている。

・倭人傳は韓地陸行なり:紹興本は手を加えている。韓伝は陸行であった。多くの国名が出て来る。 「史記」西域の国々に卑字は使われていない。大国になった時、卑字が使われる。 周は匈奴に追われて中国本土に逃げてきた。その周を殷が保護した。 匈奴:匈河水の種族 胡奴:胡の種族 委奴(ゐど):倭奴、倭の種族 倭人傳の官名 倭人傳の固有名詞の読みは推定。 呼:カ 狗:コ ヒミカ:日甕、太陽の甕(みか) 筑後風土記に甕依姫 奴:ヌ

 第七章 戸数問題(p.215)

一 魏の制度としての戸

・倭人傳の戸と家 合計十四万六千戸と四千家

・落と家と戸:混用している 確証のあるものだけを書いた。分からないものは書かなかった。 北方民族は落が多い。

・魏志の邑と戸:魏の時代 省、郡、県、邑、戸

・「戸」が出てこない:蜀志は、戸が出てくるのは二ケ所 魏志では多く出てきた

・魏の制度としての「戸」が強引に貫ぬかれている:三国志の呉志、蜀志で、「戸」は消された。

・郡評論争:大化の改新の詔勅、「郡」が出てくるので信用できない(井上光貞)那須国造碑の金石文は「評」(評督) 七世紀末まで評、八世紀に郡という単位が使われた。浜松の伊場遺跡から、「評」の木簡が出てきた。 日本書紀、続日本紀は、九州王朝が使っていた「評」を隠した。人物の肩書きに「評督」と出てくる。

・戸と家の区別:「戸」は税を取る単位、また軍事力を徴収する単位。倭人以外の人がいた場合、「家」 一大国、不弥国の場合、倭人以外の人々がいたので、「家」。 三千許家:許は前後の意 ・夷蛮の地に戸なし:史記、漢書では「戸」を使っていない ・「漢書」

・地理志:戸〇〇万、口◯◯◯万、県◯◯

二  戸数問題の副産物(p.236)

・県の存在:県(あがた)の成立 県風土記は九州王朝。郡(こおり)風土記は近畿王朝の命令。

・二つの風土記と二つの里程:県風土記は短里(75m)、 郡(こおり)風土記は長里(435m)

・万葉の短里:八世紀、土地の人が「二十許里」、これは短里。長郷で約四里。短里が出ている。 7

第八章 剣・矛・戈(p.241)

一  三国志に現れた剣・矛・戈

・剣・矛・戈:上級の人物は上殿の時でも、剣を持っていた。 柄のついた矛(ほこ)、遼東半島、朝鮮半島、日本列島で使われていた。中国大陸では戟(げき)。 刃が片方、刀。両刃は剣。(倭国)兵に矛・楯・木弓を用いる。

・中心は筑紫:細形銅剣分布図、青銅器分布図

・天子を守る矛:張飛が矛を横たえて、橋に立ち、蜀の劉備を逃した。劉備は妻子を捨てて、逃げている。 馬超は、劉備を玄徳、玄徳と呼んでいたので、関羽と張飛は杖刀(刀を杖のようにして)立っていた。 その後、玄徳、おい玄徳と呼ばなくなった。 杖刀(じょうとう):将軍の姿勢 稲荷山鉄剣の金文字「杖刀人」

・矛は戦闘用具:主たる戦闘具、矛(ほこ)

二  戈(か)の時代

・戈を倒にす:殷の民衆は、武王の反乱軍に対して、戈を逆さまにして迎えた。(尚書、一カ所) 戈は柄の長い鎌の親玉のようなもの。つまり農具が武器になった。馬の足を払うのに最適。

・剣履(けんり)上殿(じょうでん):諸侯が身につけていたのは剣で、矛や戈ではない(礼記)

・戈から矛への変化:戈は小隊長か部隊長が持っていた。三世紀になると、矛が主となる。 戈を振り回すと味方まで殺傷する危険があった。矛は槍のように、密集しても使えた。

・矛盾(むじゅん)と干戈(かんか):矛(ほこ)は金属の中に柄をつける穴が開いている。中子(なかご)を作る。

三  出雲からの出土物

・三五八本の銅剣(出雲の荒神谷遺跡):戈は、古く殷末周初の武器。矛は、周末から漢・魏の新しい兵器。

・出雲の時代の一断片:国ゆずり神話、出雲から筑紫に中心が移った。大国主命が国ゆずりを承諾した。

・八千戈(やちか)の神と八千矛(やちほこ)の神:剣でなく、矛や戈か

・剣は便宜上の用語:高橋建自/日本青銅文化の起源 鉾は、本の方が袋になって柄を刺しこむもの。 剣は、本の方が刀剣のように茎(なかご)になっている。その茎が柄の方へ差し込まれる。 ・剣は矛であり、戈である:

・実在の名称と学問上の名称:甕(かめ)棺と甕(みか)棺 卑弥呼(ひみか)は「太陽のミカ」 稲荷山鉄剣は刀(とう)、両刃が剣(つるぎ)、片刃は刀(とう)。 四 前期銅鐸の問題(出雲)

・先祖を祭る前期銅鐸:天子が祖先を祭り儀式に銅鐸が使われていた。(礼記) 鐸(たく)と一緒に中細剣が出土

・国ゆずりで、消えた銅鐸:神聖な中細剣が平剣へ発展したが、出雲では断絶している。 ・斧(おの)の似合う天子:周代の天子 斧鉞(ふえつ)を操りて云々

第九章  銅鏡百枚

一  鏡の記録 ・記紀にない鏡:特に汝に…銅鏡百枚…(魏志) 卑弥呼は天皇家の先祖ではない

・莫大な下賜品の背景:馬韓(韓国)は、楽浪・帯方郡と戦い、滅亡した。

・鏡を望んだ卑弥呼:後漢の献帝が武帝を魏公にするとき、周代の前例にならい、鉄鉞 卑弥呼は太陽信仰で鏡を欲した。アマテル大神であった。八割りは博多湾岸から出土する。

・鏡と前方後円墳:アマテル信仰

(雁註)糸島、博多湾岸に、前方後円墳はない。佐賀の岩戸山古墳は、衙頭(がとう)のある前方後円墳。

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二  三角縁神獣鏡説  小林行雄

・三角縁神獣鏡:近畿に集中している。

・二つの疑問:三角縁神獣鏡は中国に出土しない。弥生遺跡に出土しない。日本列島で古墳時代に作られた。

・倭国特注説:小林行雄らの自己進化の理論。これは理解し難い。

・伝世鏡の理論:岩清尾山(いわせおやま)古墳の猫塚古墳(香川県高松市)(梅原末治) (古田)部分伝世はあるが、全面伝世は不可能 魏(二世紀)の夔鳳(きほう)鏡:福岡県春日市

・須玖岡本、一世紀の弥生墓から出土 (梅原)従来の私の発想は少し変えなければならない。

・考古学界を憂う:多くの考古学者は、三角縁神獣鏡は国産だと思っているが、それを言って貰っては困ると

・猫塚の荒廃:讃岐の石清尾山古墳 積石塚として有名だが、荒らされたまま。

三  弥生鏡*の銘文 *漢式鏡

・日と光の文字:弥生鏡は全部で60 ほど、その殆んどが筑前中域

・弥生人は字が読めた:魏は、詔書を送ってきた。

・神聖なる日を映す:太陽信仰に関係している。

・蒼龍と白虎:後に四方となるが、当初は東西。

・仙人は桑を食す:筑前の卑弥呼、壹與は、蚕から絹織物を作っていた。

・崑崙山を知っていた:シルクロードの終点は、最初(弥生期)は、本来、北部九州に至る道。

四  立岩遺跡の舶載鏡

・詩にならない銘文:音韻が合わなくなっている。つまり、舶載鏡ではない。

・文字はデザイン:意味がわからない、つまり、文字は単なるデザイン。中国人が作った鏡ではない。

・国産鏡の等級:日本では権力の象徴として日本列島製の鏡が作られた。文字を読まなくてもよかった。 太陽信仰の儀式の道具。中国では鏡は女性が日常愛用する日用品。良質の銅鏡もあれば、悪質もあった。

第十章  倭人伝の詔勅

一  日本初期の詔勅(p.299)

・遺言の詔勅 日本書紀

・雄略紀は隋書

・高祖紀から採っている。年代からみると、逆だが、書紀は盗作した

・人麿の本歌取り

二  倭人伝の詔勅(p.302)

・三国志の詔勅 武帝

・曹操は天子になっていないので、詔書はない。倭人伝だけ詔書が出てくる。

・卑弥呼に制詔す 制詔は天子の命令、天子のみことのり。 制は帝王制度の命、詔は告令。また天子が勅を下す。制勅。卑弥呼は諸侯

・王侯に準じて扱われている。

・制詔の意味 中国の制度の中に組み込まれる。たいてい「詔」で、「制詔」は、それ程、出てこない。

三  詔勅を深く読む(p.309)

・夷狄文字を識らず 鮮卑王は文字を知っていることを「親中國である」という証拠

・太后詔 詔勅の中に「大魏」とある。「大倭」も同様に理解すべき。

第十一章 朝廷の多元性

一  玉、珠、丹(p.311)

・玉 玉(ぎょく)は崑崙山で採れる。曹操は、遺言で「葬る時、平常の服で、金銀珍宝を一緒に入れるな」 「喪乱以来、漢氏の諸陵、発掘されざるは無し。至りては乃ち、玉匣

・金褸を焼き取り、骸骨并びに尽くす」 (魏志・文帝の詔勅) 壁(へき):輪のようになった玉(ぎょく)

・珠 真珠 ・丹(朱)明帝も祖父・曹操が非常に質素で、贅沢なものは使わなかった。 9

・石車と磐船 いわふね、石を運んだ船の意。しかも石を攻撃用の投げ付ける装置。修羅(しゅら)は大きな石を運 ぶソリ。

二  朝廷の多元性(p.319)

・三国志の朝廷:漢の朝廷、魏朝、呉朝 前漢の朝廷も対象となっている。

・朝廷の多元性と西晋朝廷の不在:執筆時点の権力の中心

・西晋を朝廷と呼んだ例はない

・朝廷を疑ってみる:出雲風土記に二回、朝廷と出てくる。この朝廷は出雲朝廷か大和朝廷か

・二つの朝廷:国造り(くにつくり) *くにもみやつこ、と暗記してきた 叙述の大穴持命と孫二人の場所を朝廷 と呼んでいた。大和朝廷ではない。出雲、筑紫、大和、それぞれ朝廷

・国を造り、国をゆずる:大国主命は大和朝廷に国をゆずったわけではなく、筑紫に天孫降臨した邇邇芸命(皇御孫 命)に譲った。出雲中心の支配を完成したことを国を造ったと表現している。

・三津郷の大国主:大穴持命の子供が口が利けず、夢で願った。 銅の精錬で鉱毒が流れていたか。銅利器(出雲矛)を大量に生産していた。

参考書(包括的)

1 三品彰英/邪馬台国研究総覧

2 佐伯有清/研究史 邪馬台国

3 佐伯有清/邪馬台国基本論文集 *邪馬台国が正しいと考えている。

4 安本美典/邪馬台国ハンドブック *甕(みか)依姫を取り上げていない。ハンドブックにならない。

研究論文摘要

1 松下見林/異称日本伝 金印・ヤマト(大和)の地にあると信じた。金印は九州志賀島

2 新井白石/外国之事調書 晩年、ヤマトから九州、九州説、筑後の山門(やまと)郡 本居宣長

3 白鳥庫吉/倭女王卑弥呼考 九州説/筑後また肥後の山門 里程に約五倍の誇張あり(短里を知らなかった

4 内藤湖南/卑弥呼考 大和の地名、官名、人名に比定した。*版本を探った

5 高橋健自/考古学上より観たる邪馬台国 古墳墓の多い地、漢魏の鏡・出土の多い地。大和 *卑弥呼の墳墓、径百余歩(435m) 長里で計測してしまった。実際は短里(25m)、100 歩x25cm=25m

6 三宅米吉/邪馬台國について 倭(ヤマト)に従属する国として、奴(な)国を考えてしまった。 *委奴(ゐぬ)「ゐ」の(人々)国

7 橋本増吉/邪馬台国の位置について 卑弥呼の径は円形を意味している。前方後円墳は当たらない。 *筑後山門説を採ったが、山門は円墳の密集地でもないし、鏡、錦の密集地でもない。文献と考古学は別の学問

8 梅原末治/考古学上より観たる上代の畿内 青銅器から鉄器へ。三世紀、鉄器文化の中心は大和。しかし、三世 紀、近畿には金属器がない。銅矛の実物、鋳型は出土していない。大和が前方後円墳の最古型と称していたが、 近年、小郡市の津古生掛けに出現している。

9 笠井新也/卑弥呼の冢墓(ちょうぼ)と箸墓(はしはか) 全長230m、後円径150m *径を前方後円墳の円墳部と限定、ただし短里(卑弥呼の墳墓、100 歩=25m)を考慮していない。

10 榎一雄/魏志倭人伝の里程記事について 全里程を合計すると10,500 里。 *1500 里は伊都国から邪馬台国まで 唐六典に1 日の歩行・50 里から、30 日は1,500 里になると計算。 三国志と唐六典が同一の単位であることが前提。短里と長里では成立不可能

11 小林行雄/邪馬台国の所在論について 鏡は手ずれで伝世される。三角縁神獣鏡(四世紀以降の古墳)こそ魏 朝から卑弥呼に授与された鏡であると。確かに部分的には伝世もあるが、全三角縁神獣鏡が三世紀に齎(もたら) されたとするには無理がある。しかも中国から一枚も出ていない。国産銅利器は筑後になく、筑前中域である。

12 植村清二/邪馬台国・狗奴国・投馬国 九州説とすれば、筑紫郡を中心に、糸島(福岡西部)から神崎(佐賀 県北部)に及ぶ領域以外にない。 あとがきに代えて 中山千夏さんとの往復書簡 資料 倭人伝・読み下し文 以上



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