浮世絵学04/外題(支那學・九州年号)日本書紀・編纂者の造作(ツジツマ合わせ) 卑弥呼、応神王朝、仁徳王朝、筑紫磐井君、継体王朝、欽明王朝、多利思北孤)酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂主人 http://www.ukiyo-e.co.jp/38857
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1982-04-29現在(2024-12-02更新)

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人)

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


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G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  Guide

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R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) Copy and Handmade reproduction 

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V浮世絵学 ミニ動画     Mini-film, about 5 minutes 

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,402項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 

2018 SAKAI gankow

 

2020 SAKAI kunio

 

 
*ファックス、使えません。

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◯浮世絵学13/中国古典文学(金文)青銅器_酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/11374

◯古墳成立年代の科学的計測が不可欠である。史書は、為政者により大義名分上、都合、良く書かれている。考古学の科学的測定は、これらの誤謬(ごびゅう)を正してくれる。なお、宮内庁(明治以降)の陵墓比定は、全く科学的根拠が無い。考古学では否定(比定ではなく)されている。

1924(大正13)、津田左右吉(東京帝国大学教授)は、「古事記及日本書紀の研究」(岩波書店)で、日本書紀・編纂官の造作を指摘している。このため、当時、不敬罪となった。

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◯浮世絵学・日本書紀・編纂者の造作_酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)(2019-08-15)

*これまでの古代支那史書、考古遺物の史料批判の結果、次のような結論が明らかになった。

57(建武中元二)「委奴」(ゐど)國へ金印を印綬(後漢書)

*日本書紀編纂者は、神武天皇を造作(増作か)し、古代支那史書と整合性(ツジツマ合わせ)を図った。

*委奴の「委」:本来、「曲がる」(稲が頭を垂れる)意。つまり御辞儀をする風習の人々が朝貢してきた。

(雁註)北九州から石の硯(すずり)が発見されているので、文字があったと判断できる。墨で文字を木簡(また竹簡)に書いた。まだ紙は無かった。委奴(ゐど)國は、紀元前から朝貢しているので、紀元前にも文字を使っていたと考えるのが自然である。

107帥升*(永初元)*すいしょう(後漢書) 倭國王とあるが、本来は「委奴國」である。「倭は元、委」(経籍籑詁)とある。「委の人々」という意味で、イ篇を付けて、「倭」とした。委(ゐ)が先で、倭(ゐ)は後である。「帥升」:王國の官職名か。

238(景初二)親魏倭王卑弥呼*(ひみか)に「制詔」**(せいしょう)(三国志・魏志) 

*呼(か):「か」の音。「こ」、別の文字。(古田武彦・調査)

**制詔(せいしょう):天子からの最上位の辞令(命令) 卑弥呼は制詔を受ける王権であったことを示す。

247(正始八)卑弥呼*(-239-247-)(三国志・魏志)「*ひめか」と読むのが正しい(古田武彦)

#卑弥呼墳墓 100歩 1里=300歩であるから、75m/300=0.25 m、つまり25cm。100歩は、25cm x 100=25 m前後ということになり、当時の墓制との整合性がある。日本書紀では、卑弥呼と書けないので、神功皇后を捏造している。もし神功皇后が実在していれば、支那の史書に記録されているはずである。

421(永初二)倭王「讃」、南朝(420-479)劉宋(りゅうそう)・*劉裕(363-422)に入貢(宋書) *武帝

*倭の五王は九州王朝。支那式の称号を使っている。難波、奈良には、何も実体が無かったことを裏付けている。

420s誉田山古墳(ほむだ)(大阪市羽曳野市、425m)応神王朝?(?-?) 

*十五代 河内王朝、騎馬民族の王朝か。しかし、500s継体王朝が越前から移動してきた頃、既に既存勢力は失われていた。宋書の倭の五王と整合性がない。

*倭の五王は、全て九州王朝。古代支那式に一字名で名乗り、上表文に署名している。

420s-450s大山(だいせん)古墳(大阪府堺市、486m)仁徳王朝?(?-?) 十六代 河内王朝。しかし、500s継体王朝が越前から移動してきた頃、既に既存勢力は失われていた。ただ古墳があっただけで、「銅鐸文化圏」である。九州は「銅矛、銅戈(どうか)文化圏」である。宋書の「倭の五王」は九州である。

*(雁註)厚葬(巨大な墓)は、かなり後代の墳墓の可能性がある。考古学、科学で、客観的な根拠を解明する必要がある。

*一刻も早く、内部、外部の科学的計測を行い、年代を特定して欲しい。鏡、釼など、青銅器が出土すれば、成分分析で、何時、何処で製造されたか、特定できる。

478(昇明二)倭王「武」、遣使上表(宋書)使持節都督、六國諸軍事、安東大将軍、倭王に除せられる。

*劉宋(420-479)

528「岩戸山*」前方後円墳(福岡県八女市、135m)

*筑紫磐井君(?-528) 九州王朝の磐井君(いわいのきみ) 

*衙頭(がとう)部分に石人、石馬群。これは賠償の判決を下した裁判所。つまり、国家があったことが解る。

*日本で唯一、埋葬者が判明している古墳

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530s*今城塚古墳(大阪府高槻市、190m)継体王朝?(?-531?)*いましろづか 

・二十六代・継体 520s越前から登場。近江云々ともあるが、広域で近江は殆ど越前と一緒である。生没年が不明確。日本書紀では、悪逆非道の*武烈王は跡継ぎがいなかった。武烈王、これほど酷い悪役の天皇も珍しい。

・今城塚古墳内部の石棺の壁面(これは失われているが)、幾何学模様になっているので、文様学(上條耿之介)から大陸からの人物と判定できる。恐らく蒙古、高句麗系の強力な騎馬民族であろう。あっという間に、列島を支配した。

・騎馬民族の鐙(あぶみ)、馬銜(はみ)、劔(つるぎ)は鉄器で製造し、日常、使っていた。

・九州王朝の人々は、青銅器、青銅製劔を使っていた。青銅器では鉄器に所詮、敵わない。

*武烈王は、継体王朝を捏造するために、悪逆の王として創作された

527「継体が東半分、物部麤鹿火が西半分で、山分けしよう」と、物部麤鹿火は磐井(菩薩天子)を殺戮し、血の海になった(日本書紀)。

・これまでの列島の殺戮方法と全く違うので、これは大陸からの異民族(移民族か)と考えるのも一理ある。

・江上波夫/騎馬民族征服説を含めて、大陸からの強力な武力により、列島の呪力(鬼道、銅鐸文化圏)国家は滅ぼされた。

・その勝敗を決めた武器、大陸は鉄器で、列島は青銅器。これでは全く勝ち目はない。

*古田武彦の精査によると、500s継体王朝以前は二年倍暦。これは重要な指摘である。

580s丸山古墳(奈良県橿原市、全長318m)欽明王朝?(510-571) 二十九代・欽明が比定されている。

*明治初期、イギリス人・ゴーランドが古墳内部に入り、計測している。

・列島最大の石棺と記録している。

・朝鮮半島の百済と交流していたのは九州王朝であって、奈良の欽明王朝ではない。

・日本書紀・欽明王朝の記事は、八割が百済の史書からの盗用である。即ち、これ以前、既存の王朝が無かったことを露呈している。

600(開皇二十)倭王、遣隋使、入朝する(隋書・俀伝)*俀(たい)、大なる委(ゐ)、つまり大委(たいゐ)。

(雁註)610s三経義疏(ぎしょ)付箋、「此是・*大委國上宮王□集非海彼本」。*大委、大いなる委。

607(大業3)遣隋使 国書を上表している。

618多利思北孤(-600-607-618-)(たりしほこ)隋書・俀(たい)傳 

*日本書紀は、利思北孤と書けないので、*聖徳太子を捏造 

*聖徳太子は、推古朝が中国の梁・萧衍(武帝)(464-549)(しょうえん)の事跡を盗用して、捏造した。実在しない。

618(推古26)多利思北孤は、18年間に5回以上、朝貢している。

聞、海西菩薩天子、重興佛法、故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法、其國書曰、日出處天子致書、日沒處天子、無恙云云

俀王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌*(隋書・俀傳) 

*號阿輩雞彌、何と読むのだろうか。

*有阿蘇山、其石無故火起、接天者俗以爲異、因行祷祭とあり。*阿蘇山があり、理由なく火を噴き天に接し、祷祭する。

*倭(この隋書では俀)の王朝交替、移動は認められない。しかも、阿蘇山とあるので、邪馬壹國(博多湾)は九州ということになる。

*618、日本書紀では多利思北孤の名前を出せないので、聖徳太子を捏造した。多利思北孤は男、推古天皇は女。

(藤枝晃)

・聖徳太子伝説は、梁・*萧衍(武帝)(464-549)*「しょうえん」の事績を手本にしていて、信用できるものは一つもない。

・萧衍は南朝・梁(502-557)の初代皇帝で、近隣諸国から菩薩天子と礼賛されていた。

(雁註)藤枝晃先生の指摘は、具体的である。聖徳太子は実在しない。伝説であったと断定している。

*海行かば …大伴家持(718- 785) *多利思北孤より遥かに時代は下がるが…古万葉集も、その淵源は支那の文選(もんぜん)、四書五経にある。支那古典から、暗示を受けて、後代に作られたことも考えられる。奈良に、海はない。

うみかば かばね やまかば くさかばね おほきみにこそなめ かへりみはせじ

ひょっとして家持は古万葉集から、菩薩天子(九州王朝)への憧憬を紡ぎ出したか。

600s  ・評制(金石、木簡が浜松から発見された) *ひょう

646(大化)-701(大宝) ・郡制(日本書紀) *ぐん こおり

662(天智元年)白村江の戦い「倭(九州王朝)、百済連合軍」と「唐、新羅連合軍」との戦い。九州王朝は急速に滅亡へと向かう。朝鮮半島で戦ったのは九州王朝で、奈良王朝ではない。

701(大宝) 評(ひょう)を使っている これ以後、郡(こおり)

720(養老4) 日本書紀


*浮世絵学(支那學・金印「漢委奴國王」)2019酒井雁高/「委奴」の新解釈(真解明) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

http://www.ukiyo-e.co.jp/39091

*浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64a)1971古田武彦/「邪馬台国」はなかった 魏志(影印)九州王朝* 帰結、ずばり「邪馬台國」は九州(阿蘇山があるので確定) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

http://www.ukiyo-e.co.jp/36642

*浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会65)1971古田武彦/失われた九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

http://www.ukiyo-e.co.jp/37294

*浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会66)1975古田武彦/盗まれた神話 九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

http://www.ukiyo-e.co.jp/36655

*浮世絵学(支那學・九州年号:卑弥呼、応神王朝、仁徳王朝、筑紫磐井君、継体王朝、欽明王朝、多利思北孤)酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂主人

http://www.ukiyo-e.co.jp/26571

*浮世絵学(支那學・九州年号:九州王朝の系譜)酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂主人 http://www.ukiyo-e.co.jp/39816

**浮世絵学(支那學・經籍籑詁)1798阮元/經籍籑詁ケイセキセンコ 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

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浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会)280s陳寿(233-297)/三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

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*浮世絵学(支那學・漢文研究法)1913狩野直喜/漢文研究法 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/37653

*浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64b)

280s陳寿(233-297)/魏志(三國志) 

656魏徴(580-643)/隋書 邪馬台国 帰結、ずばり九州(阿蘇山と書かれている)(古田武彦/九州王朝*)酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

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*浮世絵学(支那學・原字)(げんじ)甲骨文、金文、石鼓文の原文字の意 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

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*浮世絵学13/中国古典文学(金文)青銅器_酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/11374

何か御気付きの点があれば御教示ください。

酒井 雁高(がんこう) 浮世絵・酒井好古堂主人 学芸員 curator 

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