浮世絵学/ひろしげ 刊年 1830.01-03(文政13.01-03)に版下画成る 廣重/東海道五十三次(保永堂+僊鶴堂)とうかいどう 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/17992
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浮世絵学/ひろしげ 刊年 1830.01-03(文政13.01-03)に版下画成る 廣重/東海道五十三次(保永堂+僊鶴堂)とうかいどう 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/17992

1982-04-29現在(2023-02-27更新)(2024-08-24更新)

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人)

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


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G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  Guide

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R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) Copy and Handmade reproduction 

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V浮世絵学 ミニ動画     Mini-film, about 5 minutes 

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,391項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 

2018 SAKAI gankow

 

2020 SAKAI kunio

 

 
*ファックス、使えません。

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★★★廣重の東海道五十三次(保永堂)が何年何月に刊行されたか。この画証に関する新知見。

*恐らく、特筆すべき発見である。学術雑誌好古堂版「浮世絵」を創刊した祖父、酒井庄吉、文助、忠吉を初めてとして、大正期の廣重研究の第一人者、小島烏水さん、松木喜八郎さん、そして父・酒井藤吉(日本浮世絵博物館初代理事長)、叔父・酒井貞助、酒井泉三郎、先年、お亡くなりになった鈴木重三先生ほか、最大の関心事であった。きっと喜んでくださるに違いない。

酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

浮世絵学**     →御案内 酒井好古堂  http://www.uiyo-e.co.jp/56701

◯2018廣重/東海道五十三次之内 保永堂+僊鶴堂

2018廣重1(ひろしげ1)/東海道五十三次之内_246項目

*結論を述べると

1)1830.03+.08(文政13.03閏.08)以降 伊勢内宮大々(だいだい)御神楽を描くため、東海道の宮から伊勢参宮道へ。

この往復で、東海道の宿駅を描いた。しかし、鈴鹿越えをしていない。つまり、京へ行っていない。

2)1831.01.02(天保2=文政14)、廣重/大横/東海道五十三次 (保永堂+僊鶴堂)1年間で、13点

*前年(文政13)12月末、1830.12(文政13)に彫、摺が出来ている。販売は、1月2日。

3)1831.01.02-1832.12.30(天保2-天保3)保永堂) 2年間かかり、42点

4)1834.01.02(天保5) 保永堂単独で、55点、出版

*下記の図録(展覧会)を是非、御覧下さい。

1975酒井藤吉/廣重東海道風景版画(五種類すべて、保永堂、行書、隷書、中判、狂歌)。大阪市立美術館

1994酒井雁高/廣重(図録)、秋田市千秋美術館、岐阜市歴史博物館、岡山城天守閣、岩国歴史博物館、ほか

*廣重の図版(廣重/東海道<保永堂版>、國貞/東海道五十三次之内、芳重/東海道五十三駅・鉢山圖繪、廣重/五十三次名所圖會)編年資料集成(伝記、年表)などは、これまでの資料を全て網羅し、博捜した図録、資料です。

(雁註)図録の年表に1912小島烏水、1934漆山天童、1965林美一、1970鈴木重三など先学の諸賢を記載しておいた。林美一氏が、廣重の伊勢内宮大々御神楽之図を記録している。三代廣重の伝聞により、八朔に東海道へ出掛けたとの記録があるが、実際は役者の旅姿(夏の衣服ではない)などから、閏三月に出掛けたと見るべきである。四月、幸四郎、團十郎などは伊勢古市にて興行をしている。

1995酒井雁高(編)/超豪華復元浮世絵 歌川廣重 東海道五十三次。小学館

*この冊子に、先学の諸賢をほぼ網羅して、彫、摺、絵の具の差異を詳細に記した。残念なことに、発刊と同時に完売で、図書館などで御覧ください。

 

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1994酒井雁高/廣重(展覧会図録)(資料集成、年表)、岡山城天守閣ほか

 

 

目次)

1 1830.03+.08(文政13.03閏.08)以降、廣重は、伊勢へ出掛けて、東海道の宿駅の下絵、そして伊勢内宮大々御神楽を描いている。

2 1830.03(文政13.03)廣重/大3/美人風俗合・伊勢古市(三枚続)を描いている。

3 1831.01.02(天保2=文政14)、廣重/大横/東海道五十三次を刊行した。

4 年月、外題、役名(役者)の特定

5 廣重が、将軍家の御馬献上に随行した(三代廣重の伝聞)

6 廣重は、幕府海防の密偵として、東海道を含め、海岸線の景色を描いていた。廣重は武家。

1)廣重/1830.03(文政13.03)/大3/伊勢内宮大々御神樂之圖 

廣重は、文政13.03、伊勢へ出掛けていた *実際に、出掛けたのは文政13.03+.08(閏3月8日)以降(馬琴宅訪問の後)

偶然、この画証および書証(刻記)を見付けた。この絵の刻記だけでは、廣重が伊勢へ出掛けたことにならないと、ある方が云っていた。しかし、出掛けていなかったという否定証明は、廣重が文政13.03、特定の場所へ出掛けていたことなどを含めて、否定事実を証明しなければアリバイにならない。先ず、画証、書証を提示することが議論の大前提である。

また、廣重は、1837c(天保8*年頃)、木曾路から京都、大坂、備前、四国丸亀へ渡り、帰路は大坂から奈良、伊勢を経て、名古屋から東海道を歩んでいた。木曾海道の関連のため、東海道の宿駅の写生は少ない。このことは、天保8*年以前に、廣重は既に東海道を旅したことを示している。(木曽路写生帖、大英博物館所蔵)

*(雁註)1836c(天保7頃か)、翌年に倒産(竹ノ内氏によると、板元を止めたので、倒産ではない。もとの質屋に戻り、孫八と付けていた。質屋の時は孫七。稲垣進一大兄の教示による。

文政13.03、廣重は東海道を四日市まで、そこから伊勢参宮道へ向かった。四日市の旅人が転がる笠を追いかけて、脇道へ逸れて行く? これは廣重の洒落であろう。つまり、この時、石薬師以西、鈴鹿越え、京師まで、全く出掛けていない。

*文政13.03+、閏月(小)がある。

*馬琴/『滝沢家訪問往来人名録』 下121(文政十三年閏三月七日)
  〝庚寅(文政十三年)閏三月七日来訪 八重洲河岸火消同心隠居安藤鉄蔵事 古人豊広門人 画工広重〟
1830.03+.07(文政13閏3月7日)廣重は馬琴を訪問している。伊勢おかげ参り、その他の情報を聴いたのであろうか。
1830.04(文政13.04)幸四郎、白猿・團十郎などが伊勢古市で興行することも聴いたに違いない。
このためであろうか、幸四郎、團十郎など役者の旅姿が描かれている。
従って、廣重は翌日、閏三月八日以降、伊勢へ出掛けた。(以上、加藤好夫先生がネット上に掲載してくれた文面を追記する)
 
馬琴(1767-1848)は、廣重(1797-1858)より30歳ほど年上である。

浮世絵学に沿って、記述する

1 落款:廣重画

2 刊年:1830(文政十三庚寅三月)*文政13.12.10改元、天保1年となるが、21日間のみ。

*1830.03+.08(文政13.閏04.08)この日以降、東海道、伊勢へ出掛けた。

*江戸に戻り、1830.12.30(年末)までに版下絵を校了。55枚全部ではなく、半分ほどか。1831(翌天保2)、1832(天保3)に刊行した。

3 判型形態:大3

4 外題/伊勢内宮大々御神樂之圖

5 版元:岩戸屋

6 内題

内題:(大3-3)

*文政十二丁丑(1829)年御□*宮、□*シンニュウ+千 センの宛て字

*同(文政)十三(1830.03)庚寅年三月より、諸國おかげ参り講中大々之圖 

7 出典:日本浮世絵博物館

(雁註)廣重は1830.03(文政十三庚寅年三月=天保1、12/10改元)伊勢太々神楽のため、東海道を往還している。

その草稿をもとに、1830.12.30(文政13.12=天保1、12/10改元)までに板木を彫り、

*1831(翌年、天保2)、一月二日。13枚(保永堂+僊鶴堂)を発売した。

*1832(翌々年、天保3)、残り42枚を刊行したか。

この件に関して、漆山天童さんが、記録していた。

 

 

*伊勢太神宮遷宮は前年、1829(文政12丁丑)年、20年毎に行われて確定している(武江年表ほか)。

翌年が「御蔭参り」になる。役者の着物姿から、3月、つまり冬であることが解る。漆山さんは8月、廣重が東海道を往還と記録しているが、夏の姿ではない。

*廣重の名は未だ殆ど知られていなかった。東海道/保永堂版によって、初めて知名度が上がった。

*伊勢参宮は、四日市から、外宮(げくう)を経て、伊勢・古市(ふるいち)を通り、内宮(ないくう)へと出掛ける。

東海道の道筋から、当時、外宮の方が盛んであったことが分かる。外宮と内宮の距離は5kmほどある。

この間に古市の遊廓、芝居小屋があったが、現在では全く面影がない。これは鉄道が敷かれて、人、物流の流れが

替わったからであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*稲垣進一大兄から、二代豊國の三枚続 伊勢太神宮参詣羣集圖の冊子が贈られてきた。

二代豊國は、文政13.03、伊勢へ出掛けたこと。

大林組が発行していうPR雑誌(御師の文献30)。残念なことに三枚続の左が見えない。

内宮の鳥居前の群集。鳥居の後方に外宮(けくう)が小さく見えている。

この内宮と外宮の間に、間(あい)の山があり、遊廓、芝居小屋があって栄えていた。

二代豊國が伊勢へ出掛けて描いたものと思うが、否定する方は、否定の根拠を提出する必要がある。

昨日、稲垣進一大兄より、全三枚続が送られてきた。神宮文庫所蔵の貴重な作品である。

左の奥、この橋は何という名前であろうか。

神宮文庫所蔵

1 落款:好に□□豊國画(1777-1835-(59)-

2 刊年:1830.03(文政十三年三月)

3 外題:伊勢太神宮参詣羣集圖

4 版元:ト(山口藤兵衛)

5 内題:(内宮の鳥居、この後方に外宮の鳥居が小さく見えている)

6 出典:1998大林組広報室 季刊大林 No.43特集  御師(おんし)

豊國(とよくに) 歌川〜         1769-1825(57)
*豊國(とよくに) 二代     1777-1835-(59)- 豊重の後名    *二代が三代より年上で、二代を継いだ。
豊國(とよくに) 三代       1786-1864(79)    國貞の後

廣重(ひろしげ)         1797-1858(62) *二代豊國より、20歳ほど年下である。

2)廣重/1830.03(文政13.03)/大3/美人風俗合・伊勢古市(三枚続)

伊勢古市の妓楼を描いた画証があること。妓楼名、遊女名は無いが、廣重は古市の妓楼を描いている。当時、江戸の吉原、京の島原と並ぶほどの盛況であった。備前屋、油屋、杉本屋などが著名であった。版元は岩戸屋である。伊勢内宮大々御神樂之圖(三枚続)も岩戸屋である。従って、これらの浮世絵から、廣重が伊勢へ出掛けた確度は高い。尤も、美人風俗合・新潟、美人風俗合・長崎丸山があるが、現地に出掛けていない。

 

 

*それぞれに外題があるが、三枚続の右を紹介する。版元は他の図版に刻記されているように、岩戸屋で、1と同版元。これで、廣重が実際に伊勢へ行っていた確度が極めて高くなった。*六十余州名所圖會は、京都、大坂以西は名所図会からの借用、同様に関東以北も、実際に出掛けていない。甲州、信州へは木曾海道などを描くため、出掛けている。甲州日記なども記録されている。

3)廣重/翌1831.01.02(天保2=文政14)/大横/東海道五十三次を刊行した。

*版下画は前年末まで、1830.12.30(文政13=天保1)に仕上げていた。

全作品を刊行するまで、恐らく二年ほど掛かったか。

*1830(文政13.12.10=天保1)年末に改元、天保1年となるが21日間のみ。この12月は大(30日)。

*改元されても、刊記は文政13年のまま、翌文政14=天保2であるが文政14年の表記もある。

*保永堂版(僊鶴堂合板)東海道五十三次の刊年、この画証で確定できた。

この画証で、版下は1830.12(文政12.12末)、保永堂版(僊鶴堂合板)は1831.01.02(文政14=天保2)に刊行されたことが明らかとなった。

4)年月、外題、役名(役者)の特定

役者は右が三代目尾上菊五郎(1784-1849)、中が五代目松本幸四郎(1764-1838)、左が七代目市川團十郎(1791-1859)である。1830.03(文政13)、この三人は伊勢古市で演じている。菊五郎の襲名(1815-1847)、幸四郎の襲名(1801-1838)、團十郎の襲名(1801-1832.02)、1830.03(文政13)に合致する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1933吉田暎二(てるじ)/伊勢歌舞妓年代記、放下房書屋

この伊勢歌舞伎年代記を何とか入手できた。この年代記で、役者の特定が出来た。廣重も伊勢に出掛けけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文政13.04 古市 松本幸四郎、團十郎事・市川白猿の役者名が確認できる。

七代市川團十郎(白猿)(1791-1859)別名、白猿(文政12.05-文政13.07) *文政13.03-04ならば、合致する。

また歌舞伎の専門家の意見でも、これらの役者の特定は妥当であるとの見解を得た。これらの役者の興行年月で、廣重が伊勢へ出掛けたことも判明した。

やはり、伊勢は上方(かみがた)。江戸は下(くだ)りで、江戸の役者は埒外。圧倒的に上方役者、浅尾額十郎、浅尾爲十郎などに人気が集中している。

1829(文政12.3.21)、大火、江戸三座は焼失。このため、多くの役者が地方へ出掛けた。これは最も重要な要因である。いわば出稼ぎである。

三代目中村仲藏(手前味噌)(1988安田文吉/伊勢歌舞伎考/伊勢千束屋*・歌舞伎資料図録)*ちづかや

*千束屋(妓楼)の歌舞伎資料、上段に古市、下段に中之地蔵の芝居記録

「をどり狂言・かしい志やう所、おしろい繪具類、かづら 小道具いろいろ いせ古市ちつかや」

*常設の芝居小屋は、古市廓の発展とともに、妙見、古市、中之町に設けられたが、その後、古市、中之地蔵の二所となった。伊勢三棟芝居は、操り芝居二棟、歌舞伎一棟。元禄ころから興行をしているが、毎年興行をするのは享保頃からである。

図録巻頭に、多くの豪華な衣装が掲載されている。これは江戸、京都を凌ぐ、妓楼などの娯楽施設であったことを示すものである。

1929.02.09(文政12)中之地蔵芝居(伊勢) 四代目坂東彦三郎(1800-1873)

1829.03.21(文政12.3.21)江戸三座、類焼

1829.08(文政12)中之地蔵(伊勢)、五代目松本幸四郎 *御遷宮にて江戸役者来ル(岩井粂三郎、山下八百藏、坂東のしほ)

1829.08-10(文政12)古市(伊勢)、三代目尾上菊五郎

1829.08-11(文政12)清寿院(名古屋)の芝居 四代目坂東彦三郎(男ばかり二十一人、彦三郎の食客)

1829.09(文政12.09)式年遷宮

1829.09.15(文政12)古市(伊勢)、三代目尾上菊五郎

1829.10.4-16(文政12)古市(伊勢)、三代目尾上菊五郎

六地蔵の芝居(岡崎)四代目坂東彦三郎

1830.01.02(文政13)中之芝居(大坂) 四代目坂東彦三郎、三代目尾上菊五郎(伊勢から上坂した)

1830.03下旬(文政13)御蔭参り始まる

1830.04(文政13)古市(伊勢)松本幸四郎、團十郎事市川白猿

1830.09(文政13)中之芝居、角之芝居(大坂)

1830.11(文政13)京四條の南座(京) 顔見世

1830.11(文政13)大坂堀江市之側(大坂)の芝居

1830.12.10(文政13、天保1改元)

1831.01(天保2)角之芝居(大坂)

1831.03(天保2)中之地蔵(伊勢)

5)廣重が将軍家の御馬献上に随行したことは、画証もあり事実である。

残念なことに、御馬献上については、編年譜などハッキリした記録がない。

御馬献上の行列図は肉筆もあり、はっきりしているが、殆ど記録にない。

八朔(八月朔日)、現在の九月一日ほどであるが、これらは三代廣重の伝聞である。

廣重が出掛けたのは、馬琴を訪問した閏三月七日、閏三月八日以降、伊勢へ出掛けたことになる。

四月、伊勢古市の興行のため、幸四郎、團十郎など、伊勢入りの旅姿が描かれている。

 

二頭の馬に御幣が掲げられて御馬献上の一行が描かれている。これは1830(天保2)東海道(保永堂+僊鶴堂)の藤川宿。二頭。

(雁註)追記、この画証は、廣重の想像・創作 御馬献上で、御幣(ごへい)を使用することはない。

稲垣進一大兄の指摘により、1855(安政2)竪東海道の吉田にも、御馬の御幣がある。こちらは一頭だけ。

御馬献上は、何年毎、また人数、馬も二頭、また一頭など決まりは無かったのか。幕府の専門家が、諸記録などを調べて欲しいものである。廣重が、無いものを描くとは考え難いが、廣重は出掛けたことのない彼方此方の名所を組立て、創作する名人?である。

繰り返しになるが、纏めたものを添付する。

廣重1(ひろしげ1)/東海道五拾三次之内、保永堂+僊鶴堂 

A 刊年の画証

・1830(文政十三庚寅年三月)廣重画/大3_伊勢内宮大々御神楽  保永堂(+僊鶴堂)

・保永堂版東海道の刊行年月、天保5、全55枚が描かれたという鈴木重三・木村八重子さんらの説を紹介(摺の極展覧会_あべのハルカス美術館)しているが、これは先学(漆山天童、小島烏水)が指摘しているように、無理がある。

・これ以前、天保4、天保3、天保2、十数枚づつ刊行されていたと考えるのが自然である。当初、保永堂+僊鶴堂の合版であった。

最近、稲垣進一さんのご指摘で、二代豊國/伊勢外宮 大3 が紹介された

・私は廣重1/大3_伊勢内宮大々御神楽  再点検した。

・「文政十三庚寅年三月より諸國おかげ参り講中」 明確に刻記されている。

実際に出掛けないで、明確な年月を書き加えることは有り得ない。

・廣重が伊勢内宮へ出掛けたのは、一、二月頃であったか

・本図録にも掲載されているが、文政十三庚寅年三月より云々が削除されている。

中 内題:文政十三庚寅年三月

・外題だけでなく、画面の文字を確認。左の上に、文政十三庚寅年三月と刻記されていた。つまり、廣重は、この年月に伊勢内宮へ出掛けていたのである。ということは、東海道を往復しているを意味している。

左 :(二見浦)

中 内題:文政十三庚寅年三月より…   1830.03、廣重は伊勢大々御神楽へ出掛けて取材していた。つまり、日本橋と四日市間を往復していた。

・大々御神楽殿は浮世絵師風情では、参加できなかったに違いない。

・伊勢参宮名所圖會を参考にしたようである。

・しかし、役者の冬支度の画像が描かれている。右から菊五郎、幸四郎、団十郎。

・実際の情景を描いたものに違いない。

右 外題:伊勢内宮大々御神楽之圖 内題:お杉・お玉

 

本展覧の画像は、大3の中、文政十三庚寅三月云々、文字が削除されている。

その素描を基に

・1830.12.30文政十三年末(天保改元)筆耕らと版下絵を完成していた。

・1831.01.02文政十四年(天保二)保永堂+僊鶴堂 合版を十数枚、日本橋から順次、刊行した。日本橋・朝之景から、日時を追って、保土ケ谷あたりまで、まるで自分が旅をしているかのように描かれていた。このため、とても人気があり、版元は大喜び。

版元として実績のある僊鶴堂が支援したことが、彫り摺りに綿密、精緻な技術を駆使できたのであろう。

・1832.01.02(天保3)十数枚

・1833.01.02(天保4)十数枚 鈴鹿越えの宿駅は、名所図会から再構築して描いた。

・四日市は、廣重の洒落が描かれている。笠が左手に飛ばされているのは、伊勢参宮へ向かったことを意味している。つまり、鈴鹿越えはしておらず、廣重は京都へ出掛けていない。木曾海道をみると、大津までは出掛けていた。先学の指摘のように、名所図会から、廣重は描いて、出版した。その他、九州など六十余州を見ても、すべて、名所図会を参考に、大版浮世絵を制作した。

・保永堂(竹内たけのうち)は、その後、単独で無闇に浮世絵を刊行した。しかし、出版は水もの、費用が嵩み、売り行きも落ちて、浮世絵出版から手を引き、もとの質屋の営業をした。

・1834.01.02(天保5)55枚、扉、序文(四方瀧水たきすい)、目録 

 これ以前、既に保永堂版55枚は制作されていた。

・1836(天保7)保永堂版の刊行は、本年で終わる。二、三点、翌年に刊行されたものある。

B 御馬献上 八朔(旧暦八月一日)に、将軍が天皇家に贈り届けていた。

・研究者の報告により、毎年、御馬献上が行われていたことが解った。

・神奈川宿・石井本陣日記によると、台の茶屋、毎年7/07-7/09、記録されている。

・8/1 (八朔)に京へ到着するように手配していた。

・廣重画/東海道五拾三次之内・藤川 御幣(ごへい)の御馬献上の図が描かれている。平安以来の馬牽(むまひき)にも御幣など描かれておらず、廣重の想像・創作であったことが解った。 

・廣重は御馬献上の行列と一緒に出掛けたという伝聞は、事実でないことが解った。

・1830文政十三庚寅年三月、伊勢内宮大々御神楽の取材で出掛け、その往復で東海道宿駅をそれぞれ素描していた。

・1831.01.02文政十四年正月二日=天保二年、年末までの版下を上梓した。

この時、廣重は東海道の宮より桑名、四日市までで、薬師寺以西、京都へ出掛けていない。追分より、伊勢へ向った。保永堂版の四日市を御覧になれば、分かるように旅人の笠が飛ばされ、それを追い掛けている。これは廣重の洒落っ気であり、追分から伊勢参道へ向かったことを暗示している。

 

6)北齋(1760-1849)を含めて、廣重(1797-1858)は房総、東海道ほか海岸線の詳細な景色を描いている。これらの真の意図を隠蔽するため、単に景色として刊行した可能性も否定できない。しかし機密であったため、記録に出ていない。表面に出れば、密偵の意味がなくなる。20数年後に、ペリーが浦賀に黒船を着船させ、開港を迫っている。

*崋山(1793-1841)も、1825.06-07(文政8)、肉筆/四州真景・武蔵・上総・下総・常陸の四州を描いている。北齋、廣重と地域を分担して描いたのだろうか。もともと崋山は田原藩であったから、この地域の海岸線を詳しく描いて幕府へ提出していた。後年、崋山が田原藩家老となってから、藩主の依頼で、武藏の日野の農家に嫁いでいる藩主の母親を訪ねている。日野村では供を連れた立派な馬上の武家が、突如、訪問したので、大変な騒ぎになった。農家の主婦は、直ぐ「のぼる(登)であるな」と崋山を労(ねぎら)ったという。登(のぼる)は崋山の本名である。1839(天保10)、鳥居耀蔵らによる蛮社の獄で、尚歯会の崋山は自決に追い込まれる。師の松崎慊堂*(1771-1844)(こうどう)は崋山の赦免運動のため、彼方此方に働きかけた。慊堂と同門の佐藤一齋(1772-1859)は自分の身が危ないと、何もしなかった。(1941石川淳/渡辺崋山)

*従って、鈴鹿越えの宿駅は名所図会などを参考に描いた。京師の三条大橋の橋脚は、当時、石造りであった。廣重は、どのような理由か分からないが、木製の橋脚を描いている。

 

 

*江戸へ戻り、1830.12.30(文政13)年末までに、保永堂+僊鶴堂の合板分ほかの版下絵を描いていた。

*1981酒井雁高(編)/浮世絵聚花14/103-008、廣重/総目録に記録したが、外題だけ記録したので、内題に気が付かなかった。色々な図録などを点検したが、見付けられず、本図は唯一のもののようである。東海道は廣重のデビュー作のようなもので、本図は、その画証となる現在では尤も貴重な作品である。

*これまで、東海道(保永堂単独)の刊行は、1834.02(天保5)に四方瀧水*(よものたきすい)の序文が附されて全て刊行されたことは確定していたが、それ以前が不明であった。55枚の大作で、刊行は、その数年前、つまり天保3-4、というのが定説であった。本図の出現により、天保2(文政14)正月から、刊行されたことが明らかとなった。むろん、版下画は、全てでないが、前年末(文政13)までに出来ていた。廣重研究の第一人者、小島烏水さんなどがおられれば、きっと大喜びしたことであろう。*若年の瀧水の狂名は、酒月米人(さかづきの こめんどう)

なお、1837(天保8)、保永堂は浮世絵の出版から手を引いた。1837天保8年以降の刊記が全く見当たらない。2024最近、二点ばかり、見付かったようであるが。

*以前、記録したサイト。この時は刊年の確たる画証が提示できなかった。今回は画証、画刻を提示できた。

http://www.ukiyo-e.co.jp/7176

(2018-02-05、吉田隆志先生より、画像のサイズ、容量を限定してとの修正提案を戴き、何とか悪戦苦闘で一応の形にした。吉田先生、ありがとうございました。)

廣重1(ひろしげ1)/総目録 添付する 全体を把握することが尤も大事である。

2024-08-24廣重1(ひろしげ1)/総目録_15,090項目

無外題、無版元、無内題など、整理が徹底しない恨みがある。

何か御気付きの点があれば、御知らせ下さい。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator
浮世絵・酒井好古堂 [http://www.ukiyo-e.co.jp]
[浮世絵学]文化藝術懇話会  浮世絵鑑定家
100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14
電話03-3591-4678 



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