浮世絵学01/落款(偽筆じゃくちゅう)肉筆 無款/鳥獣花木図屏風(プライス氏所蔵) 若冲/総目録 花鳥版画(6種)は大正期の創作 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/11613
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1982-04-29現在(2022-10-22更新)

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人)

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


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G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  Guide

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R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) Copy and Handmade reproduction 

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V浮世絵学 ミニ動画     Mini-film, about 5 minutes 

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,213項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 

2018 SAKAI gankow

 

2020 SAKAI kunio

 

 
*ファックス、使えません。
 
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昨日(2016-5-02)、何とか若冲展を見ることが出来た。切符を買うのに1時間、入場するまで1時間。鑑賞に1時間。

◯若冲(1716-1800)を未だに「わかおき」と読む人がいるが、これは漢籍「老子」から採った画号で「ジャクチュウ」と読む。

〇若冲(偽筆じゃくちゅう) 佐藤康宏(1955-   )

*最近、2021-2022、プライス・コレクションの若冲、出光美術館が購入したと報道。

升目の違いから、偽筆と判断。

・辻惟雄(1932-   )先生は、工房作であろうと判断。

・辻先生は、若冲の専門家である。

・また、佐藤康宏(1955-   )さんは、元文化庁出身で、非常に勝れた美術史学者である。

下記の肉筆屏風を熟覧して欲しい。

私見を述べよう。ジョー・プライス(1929-   )さん、辻惟雄先生、佐藤康弘さん、それぞれ面識がある。

稲垣進一大兄によると、2019、プライス・コレクションの総て、出光美術館が購入した。

・無款であり、絵師を特定することは困難である。しかも、プロブナンスの年月が新しい。

・落款、印章[藤汝鈞]の基準[印]が押印されていない。

・若冲の他の作品を詳細に熟覧すれば、これら枡目屏風は技法、画法が異なっている。

・若冲の絵仏師、禅僧のような真剣さが、屏風絵には表現されていない。

・ただ、多くの派手な絵の具を塗っただけである。

・色彩の統一が見られない。絵師として、致命的な描法が露出している。

・制作に際して、その態度、矜持を示す、落款、年号などを欠き、若冲本来の禅味が全くない。

・従って、偽筆である。

・同様の図柄が二点(アメリカ、静岡)あるのも、極めて不自然である。

・恐らく明治期に外国向けに描かれた偽筆であろう。

・明治期、多くの偽筆が制作され、海外へ輸出されている。

 

無款/鳥獣花木図屏風(アメリカ・プライス氏所蔵) 偽筆

  1. 2010.3佐藤康宏/若冲・蕭白とそうでないもの/美術史論叢26号  *東京大学教授 
  2. 2014.6辻惟雄/伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」について』/國華、1424号 *東京大学名誉教授 
  3. 2015.2佐藤康宏/プライス本鳥獣花木図の作者―辻惟雄氏への反論/國華、第1432号  *東京大学教授 )

 

2016無款/樹花鳥獣図屏風(静岡県立美術館) 偽筆

向かって 左隻/鳥尽くし 右隻/獣尽くし 

1933(昭和8年)無款/釈迦十六羅漢図屏風、展覧会図録

伊藤若冲の桝目描き

・佐藤氏:厳密なルールに則って描かれている

 このルールに則つて描かれている作品は、白象群獣図(個人藏)

白象群獣図(個人)真筆

釈迦十六羅漢図屏風(1933、府立大阪博物館所蔵) * 現在、所在不明 真筆 

仏教の知識が無ければ、これだけの画像を描けない。

 

・辻氏:デザインとして自由に描かれており、応用・進化を遂げている

動物の形状崩れ

・佐藤氏:他の作品に比べて描かれた動物たちの形状が崩れている

・辻氏:デザイン的なデフォルメや構図のバランスを取るために誇張している

いつ誰が描いたのか

・佐藤氏:幕末期、若冲が直接関わっていない模倣作  *プロブナンスの年月

・辻氏:寛政期、若冲と弟子たちによる若冲工房作

*工房作ならば、何時、何処で、誰が描いたかを特定しなければならない。辻先生には、申し訳ないが、「弘法も筆の誤り」というから、ただ工房作というのは、全く美術史の基本を欠くことになる。

真贋論争の余波

若冲作ではないという主張は所有者のプライス夫妻の主張と異なり、佐藤氏は若冲関連から締め出される結果となっている。

*ジョー・プライスさん(1929-   )。真偽を学問として受けいれられない人はコレクターの資格がない。

*展覧会その他から締め出されている、いないは、全く真偽に関係がない。

*締め出して除外しても、偽筆は偽筆である。佐藤康宏さんの見解が正しい。

今のところ議論は平行線を辿っているこの真贋論争。いずれも主観的な主張のぶつかり合いのため、画材の科学的な検査など客観的な調査が望まれる。

*若冲の全作品を光スペクトル分析で計測し、その基準波形と違う波形が表示されたものは、要注意である。これは客観的に真偽を峻別する科学的な方法である。

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◯2016図録を浮世絵学(1落款、2刊年、3判型形態、4外題、5版元、6内題、7出典)に沿って、入力した。

肉筆の場合、5版元は該当なし。1落款は最重要の項目、落款+印章(款印)を正確に記録する。

印章は模印、偽印があるので、その画像を比較し、基準印を確定する。

これが浮世絵学の肉筆の必須の方法である。

IMG_20160509_0002

◯編年順

2016若冲_編年順 落款+印章

*編年順に整理すると制作過程が判明する。特に印章は制作年月の決め手になる。もっとも模印もあるので要注意。これ以前、京都国立博物館でも大きな若冲展があった。若冲は元々、京都・錦小路の八百屋の息子である。

印章を拡大、比較して、基準印を把握することが、浮世絵学を初め、美術史の基本である。そして、同文の偽印、模印を排除する。

◯図録番号順

2016若冲_展示順

落款、印章を未だ厳密に入力していないが、ほぼ全容は把握できるはずである。

◯無款 *再検討を要する

2016若冲/東京都美術館_無款

図録で刊年が「江戸時代」というのは全く無意味である。鎌倉時代でないことは分かるが、もっと年代を絞り込まなければ意味がない。もっとも、疑問の作品も多い。今後の研究で落款および印章を徹底的に比較検証する必要がある。

特に墨画の作品は要注意である。ここでは特定はしないが、若冲のDNAが自ずから否定する作品は再検討が不可欠。

落款、印章があっても、飛び込み、模印があり、飽くまでも作品本意で真偽を判断することが肝要である。

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◯1730s恐らく沈 南蘋*(-1731-1733)、應挙(1733-1795)、明僧・隠元(1592-1673)を開祖とする黄檗宗の頂相(ちんぞう)などの作品を独自に学習したに違いない。宇治を中心とする万福寺が総本山である。頂相は、高僧の肖像画で、陰影が施されている近代的な写実である。

*シェン・ナンピン チンの発音ではない。

◯1740s延享初年、黄檗の鶴亭(1722-1785)が上方に南蘋の画風を広めた。

◯1747延享四年、大典顕常(1719-1801)は高遊外(1675-1763)の水差しに「大盈若冲*」と記している。

*老子「大盈若冲、其用不窮」に由来する。沖は、むなしい、道教で何も無いことを意味する。老子を読めばお分かりのように、固有名詞が無く、色々な人々が諺、格言などを対句を朗唱できるように纏めたものである。老子は春秋時代の楚に仕えたという。楚は、BC656-BC606-BC597-BC223、中原に覇を唱え、北方の晋と南北で対立し、戦国の七雄として重きをなしたが、BC223秦により滅ぼされた。

孔子(BC552-BC479)、春秋時代の思想家、魯の陬邑に生まれる。孔子が老子に教えを乞うたとの伝承があり、年代から可能であるが、疑問もある。

「若」の原字(甲骨文、金文)は、巫女(みこ)また覡(げき)が神託を受けて、神懸かり(トランス)の状態になったことを象形化(1984白川静/字統、1996白川静/字通)したものである。「若」は「汝」の意もあり、画号の汝鈞も、関連があると思う。「鈞」は、一定量の銅塊の重り(おもり)の意。しかし「汝鈞」の画号について、確たる説明を得ていない。何方か、教えて戴ければ幸甚である。これらの文字の使い方を見ても、只ものではない。

◯1752寶曆二年、三十七歳、「若冲居士」と銘記している。*居士は仏門へ入り、仏の弟子となった意。

◯1755寶曆五年、四十歳の時、家督を弟に譲り、画業に専念する。

◯1760寶曆十年十一月冬至日に、若冲は四十五歳の時、八十六歳の高遊外(売茶翁のこと)から、「丹青活手妙通神」の一行書を授かっている。後、これを印章にして使っている。

◯1765.09.29(明和2)動植綵絵24幅を相国寺へ寄進 *30点(釈迦三尊などを含まない)では名数も不自然

当初、24 点。後、6点を増やしたため、質のバラツキがある。魚介類などは、肴屋の棚をそのまま描写したもので、構図は平凡、全く迫力がない。しかし、プルシアンブ ルーで描いている作品が一点あり、これは絵の具だけでも、かなり高価な材料であった。やはり鶏、梅などの図像は迫力が違う。しかも、かなり大幅で、ぼぼ同 寸で、140x80cmであった。これ以外の大きさは別の時期と考えて良い。この大きさは、通常の掛物とは全く別で、やはり相国寺(しょうこくじ)に寄進 するために誂えた大幅の絹本である。絵の具なども、かなり高価なもので、一介の絵師ごときでは賄えない。しかも、余白が全くない、まるで虫眼鏡で総てを観 察して、極細微で描いている。これ自体、苦難の業(ぎょう)である。やはり若冲は僧院の仏師と考えて良い。と云っても彫刻ではなく、絵仏師である。これは 売茶翁(1675-1763)、大典顕常(1719-1801)などとの交友関係でも理解できる。

◯1766c明和3年6月23日、動植綵絵*が、虫干しのため、全24点、展示された。釈迦三尊像、文殊菩薩像(獅子)、普賢菩薩像(象)はシルクロードの本場ものと違って、全く日本的な容貌になっていた。真っ赤な袈裟状の着物を着ているが、若冲自身の自画像のように思えた。若冲の自画像というものがあるが、恐らく釈迦三尊像が、より自画像に近いのではなかろうか。*(明治期、宮内庁藏となる)

◯1766c大典は制作を終えた(また製作中)動植綵絵を見て四字熟語の題名を記している。(全24点の内)この時は15点が出来ていた。この24点という名数は、釈迦三尊を中心(しかし除外)に、文殊菩薩、普賢菩薩を加えて、左右に13点づつ荘厳するつもりであったか。これは名数、十三仏に関連があるように思う。

◯1766大典/藤景和画記/小雲棲稿8-6  *この時点で15幅が完成していた。大典は若冲の動植綵絵を30点と記す。

[2016村田隆志/若冲、東京都美術館306] 平安の藤景和、丹青を以て家に名づけ、将に花鳥三十幅を作りて以て世に遺らんとし、而して十有五幅、既に成る。余、為に其の題を命じ、且つ記して其の絵を状(あらは)さん。 1、其れ「隴客来集」[ろうかくらいしゅう]為り。一松虹臥し、連巻蓊鬱(おううつ)たり。鸚鵡の白き者双、其の虹する所に集まり、青き者隻(せき)、枝に県(か)かりて其の觜を反す。下は則ち湍水なり。 2、其れ「初陽映発」[しょようえいはつ]為り。丈菊挺生し、牽牛花、之に纏はりて蔓(の)び、紺白斑発して、以て黄輪の際に施す。而して一鶏下に在りて一足を頓す。 3、其れ「芳時媚景」[ほうじびけい]為り。青松上に架蓋し、牡丹燗披して下に交す。石の峩なる有り。白孔雀之に止まる。首は仰ぎて尾は委(た)れ、雪羽辣(そび)え、金花聯(つら)なる。 4、其れ「羅浮寒色」(らふかんしょく)為り。一株の梅、楨幹菝骪(ていかんばつい)し、縞葩(こうは)撩乱す。月有り、之を枝間に窺ふ。 5、其れ「聯歩祝祝」[れんぽしゅくしゅく]為り。雞は雌雄、雄は則ち朱冠彩羽、翹然(ぎょうぜん)として回視し、而して雌は後従り相ひ面す。 6、其れ「野田楽生」[やでんらくしょう]為り。禾(か)は頴(た)れて栗(みの)り、野花其の旁に攢(あつ)まる。群雀紛下し、止まる者は十六、穂を揉み実を啄(ついば)む。飛ぶ者五十八にして、白い者一。 7、其れ「堆雲畳霞」[たいうんじょうか]為り。繍毬花(しゅうきゅうか)は紺にして且つ素(しろ)く、石間より層(かさな)り出づ。薔薇其の腰を擁し、 躑躅趾を承け、麗を比べ妍を闘はせ、縟縟(じょくじょく)爾(じ)たり、燗燗(らんらん)爾たり。雞其の間を歩み、雄は尾を聳(そばだ)て足を企(つま だ)てて廻旋し、雌は則ち俯して左脚を以て首を掻く。 8、其れ「碧波粉英」[へきはふんえい]為り。白梅、水に臨みて横斜し、枝は糾(よじ)れ花は満ち、爛漫たる蓓蕾(はいらい)。白眼雀枝上に翩集(へんしゅう)する者六。 9、其れ「芳園翔歩」[ほうえんしょうほ]為り。葵花(きか)五采、鉄線連と相間(まじは)りて灼灼(しゃくしゃく)たり。雌雄は竦立(しゅりつ)し、両 翼を舒(の)べ、其の右足を揚ぐ。尾は尽く上植し、頚は□(イ+免)曲して胯間より出で、其の痒(よう)を觜せんと欲するが若(ごと)く然り。然るに雌は 其の側に伏し、首を仰ぎて相向かふ。上に朱鳥有り、葵花を唼(ついば)む。 10、其れ「艶霞香風」[えんかこうふう]為り。芍薬高低に出で、重弁単弁、紅白濃淡、斕斑(らんぱん)として曽敷す。群蜨(ぐんしょう)争集し、大なる者小さき者、蜚(と)ぶ者、止まる者、皆翊翊(よくよく)として自ら喩(たの)しむの貌有り。 11、其れ「晴旭三唱」[せいきょくさんしょう]為り。青松輪囷(りんきん)として横亘(おうせん)し、蒼髯(そうぜん)其の鱗を含みて繁布す。紅白半ば 隅自り出で、白鶏有り、松を拳(にぎ)り頚を回(めぐ)らし、日を望みて鳴く。其の雌、傍らに在り、将に盤施(ばんし)せんとする者に似たり。 12、其れ「寒渚聚奇」[かんしょしゅうき]為り。湖上に雪堆(うずたか)く、垂柳は白を連ねて以て水を覆ひ、山茶は素を載せて岸に県(か)かる。溪鶒 (けいせき)羽を刷(つくろ)ひ、石の漸漸たるに立つ。其の雌は水に浮かびて其の頚を陥(おとしい)る。柳上に復た三禽有り、彩毛鮮翅、以て皚皚(がいが い)中に点綴すと云う。 墨画三、

13、一は「秋扇凉影」[しゅうせんりょうえい]為り。芭蕉半ば凋(しぼ)みて披靡(ひび)し、月其の罅(すき)より升(のぼ)る。

14、一は「寒華凝凍」[かんかぎょうとう]為すり。風雪凌厲(りょうれい)たり、棕櫚(しゅろ)枝は裊(しな)やかにして葉は白を盛り、一鴉(いちあ)其の上に悲鳴す。

15、 一は「群囲攻昧」[ぐんいこうまい]為り。一鴞(いっきよう)松上に兀爾(こつじ)たり、群鴉四集し、上下して之を毀(きずつ)けんとし、囂々(ごうご う)の態を極む。鴉は凡そ十有一、松鬛(しょうりょう)は皆払刷(ふっさつ)して之を成し、太(はなは)だ新意有り。

之の十有五幅なる者 は、皆能く其の物を形(あらは)し、其の気に神にし、精麁(せいそ)内外に遺す無きなり。景和の言に曰く、今の所謂画は、皆画を画(えが)く者にして、未 だ能く物を画く者を見ず。且つ技を以て售(う)らんことを求め、未だ能く技より進(まさ)る者有らず。是れ吾の人に畸(こと)なる所なるのみ、と。

蓋し景和、少(わか)くして学を好まず、字を能くせず。凡百の技芸、一も以(な)す所無く、凡そ声色宴楽、人の娯(たの)しむ所、一も狥(したが)ふ所無く、凡そ富貴利達、都邑(とゆう)に夸耀(こよう)する者、日び耳目を過ぐれども、而も一として覦(のぞ)む所無し。

独 り其の性の好む所を以て、其の才を竭(つ)くし、日の力を窮め、丹青に沈潜すること三十年一日の如きなり。天地の大なる、衆物芸芸(うんうん)とし、一に 諸(これ)を画に寓せり。故に其の形貌の肖(に)たる、神気の勃なる、経営の巧みなる、彩施(さいし)の奇なるは、世の庸工の方(くら)ぶ可きに非ざるな り。嗟夫(ああ)、天下の人、孰(たれ)か志無からん、孰(たれ)か業無からん。苟(いやしく)も景和の為す所を以て之を為さば、其れ将(は)た何ぞ成ら ざる所ならんや。是れ以て世の与(ため)に道(い)ふ可し。

(雁註)外題は「とうけいわがえのき?」これは読みが不自然で「とうけいわ がき」また「とうけいわ がのき」か。

巻 8-6が何年の刊行か、成稿が何年か明確でない。ここでは成稿、寶曆十年(安永4)(寛政八)、1760(1775)(1796)で記録しておく。大典は 韻律を踏む難しい規則を八句の律詩、四句の絶句で書き著すことの出来る漢詩人であった。僧侶ということもあり、仏典を初めとして、漢籍、字書、韻律の版本 も使いこなしていた。そのせいか、恐ろしく大向こうを狙った難しい漢字を使っている。しかし、若冲の人と成りについて、もっとも知悉する人物だけに、ほぼ 正鵠を得ていると云える。他の何の伝記よりも、同時代の大典の生きた記録であるだけに、第一に優先すべき資料である。特に「今の画は、皆画を画(えが)く 者にして、未だ能く物を画く者を見ず」と若冲の真骨頂を明確に捕らえている。それにしても、大典の記述は恐ろしく難しい漢字で、通常のワープロでは、なか なか見付けることが出来ない。

その寄進状を見れば、若冲が求道僧にも通づる直向きな姿が見えてくる。

◯1766.09.29(明和3)藤汝鈞(若冲)/動植綵繪寄進狀 [2016村田隆志/若冲、東京都美術館303a]を 僕不佞、平昔心力を丹青に竭(つく)し、常に艸木の英を描き、羽虫の状を悉さんと欲し、博く采り、多く聚めて、以って一家の技を成せり。 亦た嘗て張思恭の画きし迦文々殊普賢の像を観たるに、巧妙は比ぶる無く、心に模倣せんことを要(もと)め、遂に三尊三幅を写し、動植綵絵二十四幅を作る。 沾沾(ちょうちょう)の志を世に行うに在らず、乃ち具さに列し、萬年山相国承天禅寺に喜捨することを以って、敢えて荘厳を助け、永久に伝わらんことを図るなり。 百年の形骸、終に斯の地に瘞(うず)められんことを冀うに因り、謹んで些かの貲用(しよう)を投じ、香火の縁を結ばんとす。伏して望むらくは、僉(みな)亮らかに採納されんことを。 明和乙酉九月晦日、藤汝鈞頓首再拝  相国寺知事禅師 *張思恭、中国、元代の佛画家。君台観左右帳記、宋朝の部にあり。

(雁註)若冲の文脈、語彙など、これは只ものではない。特に売名行為を思われることを避けるため「沾沾(ちょうちょう)の志を世に行うに在らず」と明確に喜捨する遺志を明確に述べている。

◯1750s(寶曆)師系についても不明である。狩野派についたというが、若冲の性格に相入れない。若冲の性格は、狩野派とは相入れない。鶏などを庭に飼って、その生態を描写したというから、流石に迫力がある。鶏を庭に飼っていて、観察したという。流石に迫力がある。

特に動きの一瞬を捕らえた画面は他の画師の追随を許さない。

後代であるが、崋山(1793-1841)なども、影響を受けたに違いない。なお、沈南蘋の沈の発音の原音は、カタカナで表記すると、シェンとなる。シン、チンとは全く異なる。ローマ字表記は日本語よりも、遥かに原音に近い音で表記している。

この経緯について、大典が詳細に述べている。

◯1766.11(明和3)大典/若冲居士寿蔵碣銘(大典蕉中撰文) [2016村田隆志/若冲、東京都美術館303b] 居士、名は汝鈞、字は景和、平安の人なり。本姓は伊藤、改めて藤氏と為す。父の名は源、母は近江の武藤氏、享保元祀二月八日を以って、居士を城中の錦街に生む。 居士の人と為り、断々として它(た)の技無く、唯だ絵事、是を好み、狩埜氏の技を為す者に従いて遊ぶ。既に其の法に通ずるや、即ち吾れ能く藍を出せども、 亦た狩埜氏の圏繢(けんかい)を超えず。舎(す)てて宋元の画を取りて之れを学ぶ。臨移、十百本を累(かさ)ね、既に又た自ら謂いて曰く、歩趨の技、肩を 終に比すべからざるや、且つ彼は物を描する者なるやと。吾れ又た其の描する所を描せば、是れ一層を隔つ、親ら物に即して筆を舐めんには如かざるなり。物な るか、物なるか、吾れ何をか執らん。今の時に当りて、褒公、顎公、及び夫の雪を冒し、詩を吟ずる者の態の有ること無く、而も露□(髟+介)、月額、袚祓 (はつはつ)の人は堪えざるなり。山水の目にする所も亦た未だ幅に上す者に遇はず。已む無くんば則ち動植の物か。孔、翠、鸚、□(鳥+義)は曽ち恒に覯る べからず。唯だ司晨の閭閻の馴れる所、其の毛羽の彩は五色を施すべし。則ち吾れ此より始めんと。 鶏数十を窓下に畜い、其の形状を極めて之れを写して年有り。然るの地、周ねく草木の英、羽毛虫魚の品に及ぶも、其の貌を悉くし、其の神を会し、心を得てて に応ず。其の筆を下し彩を賦するに、尽く意匠を以って之れを出し、一毫の踏襲するなし。古人の韻致に合わざること有るが如しと雖も、而も骨力精錬は工みに して以って卓然として名家なるべし。 又た喜(よ)く白帋の滲み易き者を用いて墨画を作す。乃ち其の滲する所に就きて濃淡を界し、而して花の弁と羽鱗の次と、歴々区分して態を為すせり。蓋し筆 の至る所、円熟にして滞らざるなり。一種の風流、世に未だ曾て有らず。観者、咸(みな)其の妙に服す。遂に此を以って斗米に易えて給を取る。是に於いて斗 米庵の号有り。 然れども居士、質は直にして飾ること少なく、技を以つて、当世に衒(う)らんことを欲せず。嘗て丹青三十の大幅を造るに、実に心に愜(かな)い度に合する の作なり。又た張思恭が迦文、文殊、普賢の三幅を模す。精絢、其の本に恥ずること無し。慨然として以爲(おもえ)らく、之れを一時に售(う)るは、之れを 身後に伝うるに如かず。之れを世俗に供するは、之れを名山に藏するうに如かず。乃ち尽く諸を相国禅寺に喜捨して以つて荘厳具に充てんと云う。 錦街は鮭菜の肆にして、旦々(たんたん)に負担する者、輻湊して市を為し、戸を塞ぎ墻(かき)に偪(せま)る。即ち居士の家、日に其の地を租(か)して亦 た以つて利を為すに足る。乃ち居士は則ち絵事に耽り、外物の之れを攖(みだ)すを欲せず。家を其の仲に属して宅を異にす。久しく頭を□(そ)(髟+易+立 刀)り、葷肉を食さず、妻子無く、季の某を以つて後と為さんと欲するも、先に亡くなれり。 是に於いて預目め百歳の後事を図り、里人と約して宅を輟(や)めて、里の有と為し、歳の其の仮貸の贏(えい)を分かちて諸を相国に施し、以つて父母及び己 を祠(し)に奉ず。其の子院松鴎(しょうおう)に請いて香火の事を掌(つかさど)らし、既にして又た松鴎の地三尺を乞いて、佳城の所を卜し、碣(けつ)を 立て表さんとす。 而るに碣は之れ銘の無かるべからざるなり。来りて余(わ)れに謁す。余れ曰く、異なるかな、以つて銘すべきか。昔者(せきしゃ)、陶潜は文を以つて祭り、 司空図*(しくうと)は壙に坐して詩を賦し、王績、白居易、窀穸(ちゅんせき)の誌を為すも、皆な老いて自ら遺せるなり。吾子(あこ)は歳半百、其の自ら 果たすことや是の如きか。然りと雖も、吾子が技に家する所以の者は、名を遂げ、事は畢りぬ。斯れ由り以往、将に何の営む所あらん。乃ち腰折らずして斗米を 得るべく、優遊を以つて歳を卒えれば、則ち所謂、睾宰(こうさい)墳鬲(ふんれき)の望にして今日に息する所を知るなり。且つ余れ、吾子と交ること十有余 年、自ら顧るに羸弱(るいじゃく)にして、恐らくは吾子に後るること能わず。夫れ吾子の息する所を知ると、余れの後るること能はざるを恐ると。是れ宜しく 以つて銘すべきが若く然り。然れども吾が仏に言有りて曰く、心は工みなる画師の如く、法として造らざる無しと。則ち吾子、苟しくも自造を択ばば、寧(いず く)んぞ徒らに思恭の描く所を描きて得たりと為さんや。是れ真に息する所を知れるか。是れを銘と為す。銘に曰く、生や死や、劫尽きて土安き者は此れか。逝 (つい)に将に子を固済せんとするや。

◯1766大典の提案で、当初、24点としたか。*司空図/二十四詩品から暗示を受けて、動植綵絵の画題を選定したか

司 空図(しくうと)(839-908)晩唐の漢詩人。司空(しくう)が姓。この二字姓は珍しい。図(と)が名。特に批評書「二十四詩品」は24の品第(ほん だい)に分けている。 「詩品」は四言詩を用い、24種の美的範疇を詠述している。大典は動植綵絵の各画題を四言詩にした。そして、二十四詩品から、二十四点の作品を若冲に提案 したと推定できる。これは名数としても自然である。しかし、結局、6点を追加し、全30点となった。ただし、釈迦三尊像は含まない。対幅にしても、かなり 苦しく感じられるのは、無理に6点を増やしたからであろう。名数として30は、全く見出せない。釈迦三尊を加えて、名数33としたか。後考に俟つ。

◯1766絹本の大きさ 尺寸で表示すると感じが分かる。

動植綵絵は、もと相国寺に献納した作品で、竪4尺7寸、横2尺6寸。堂々たる大きさである。

もっとも釈迦三尊像(如来、普賢、文殊)などは、竪7尺、横3尺7寸で、面積比で倍。格段の迫力である。

若冲は張思恭の釈迦三尊を見て、絵画の深奥へと導かれた。

真 の若冲絵画を見る機会が無かったため、「わかおき」と読む一般の鑑賞者もいた。これは代表作(動植綵絵)が相国寺に寄進された後、明治22年、宮内庁に寄 贈された。相国寺は当時、10,000円の下賜金を得たという。宮内庁に保管されたため、またまた、作品を見る機会を失ってしまった。まことに若冲にとっ て気の毒な仕儀であった。

◯1767乗興舟(じょうきょうしゅう) 墨摺、正面(しょうめんずり)摺を施している、いわば摺物(すりもの)のような意匠

若 冲は恐らく書跡(しょせき)の法帖から暗示を受けて墨画版画を製作したが、このような華麗な色彩版画は描いていない。6点という 名数も意味が分からない。しかも大きさがバラバラで、円形の画面もある。印章は汝鈞(ジョキン)、汝鈞之印、景和氏*、字景和、若冲、明和辛卯(回文)、 若冲居士など。若冲の肉筆で、干支の印章が捺印されているものは皆無である。*景和氏、これは印章として成立しない。景和は字、号である。*なお拓版画と いう言葉を使っているが、厳密な意味で拓版ではない。むしろ石摺(いしずり)と呼ぶ方が適切である。

◯1768玄圃瑤華(げんぽようか) 墨摺

◯1768(明和5)平安人物志(13丁ウ) 画家 1 西 酔月 字希蟾* 号 蛸薬師室町西入丁      大西酔月 *きせん 2 藤 應挙 字仲選 号僊斉 四条麩屋町東入丁   圓山主水 3 滕 汝鈞 字景和 号若冲 高倉錦小路上ル町   若冲 4 池 無名* 再出                  池野秋平 *ありな 5 謝 長庚 字春星 号三菓亭 四条烏丸東ヘ入町  与謝蕪村

◯1771*(明和8)花鳥版画 *これらは1930s大正期に制作された偽版で、若冲が制作した作品ではない。

若冲の原画(当時、摺られた版画)は存在しない。花鳥版画が6点ほど出品されていたが、その内の一枚に明和辛卯(1771明和8)とある。これらの版画は、私が日本浮世絵博物館にいたころ展示したことがある。大正期に作られた創作画と断って展示した。

父・酒井藤吉を初めとして、浮世絵界の先達が、そのように話していた。いずれも、大正期のもので、複製である。もっとも厳密には、原画が存在しないのだから創作画というべきであろうか。

版画に干支を入れたのは何故だろう。穿った見方をすれば、古く魅せるためである。「字景和」は意味があるが、伊藤の伊では中国風なので、藤を一字、撰んだか。いずれも、鮮やか過ぎる版画であって、とても245年前に描かれて、制作されたとは思えない。

◯1793(寛政5)、平賀(小川)白山が蕉齋筆記に若冲に関する聞き書きを記す。

1794.10.19(寛政6)、平賀(小川)白山らが、石峰寺門前の若冲宅を訪問。

*蕉齋筆記は国書刊行会で活字になっている。また国会図書館のHPデジタルで確認できる。しかし、うまく随筆百巻

百家随筆. 第3のpp.231~355 が閲覧できない。これらの活字も、そのままHPに表示したかったが、今回は出来なかった。ただ、若冲、晩年78、79歳の状況である。この1800(寛政12.0.10)の5-6年後に若冲は85歳で没する。

◯2008.3伊藤若冲「動植綵絵」 : 修理事業報告書/宮内庁三の丸尚蔵館 裏彩色、および重ね塗り

国立文化財研究所の修理および調査によると、動植綵絵は裏彩色が施されている。

表彩色にも、色を何度も重ねて画面の効果を意識的に演出している。

残念ながら、この修理事業報告書を未だ見てないので、詳細は不明であるが、下記の項目を纏めた。

◯2008絵の具について

裏彩色で黄土を施すと、正面から見ると金泥のような効果が演出される。絹地であるため、裏からも彩色を施せて、その裏彩色を最大限に利用している。

・赤色はHgS(辰砂、Hg水銀)またPb(鉛)。橙色のPb3O4(鉛丹)。

・緑色はCu(銅、緑青)またCu+As(砒素)。後、Cu+As+Zn(亜鉛)。原料の孔雀石はAs+Znを含む

・黄色はAs(砒素、石黄)。黄土?

・藍色*は一幅(魚)だけに使われていた  *プロシアンブルーは1752寶曆2、オランダ舩から舶載された。源内(1728-1779)は、1763寶曆13物類品隲に紹介している。

これまで源内(1728-1779)が描いた西洋婦人図が上限と云われているが、制作年月が明確でない。若冲の場合、1766c明和3頃、動植綵絵・群魚図(瑠璃羽太ルリハタの身体)をプロシアンブルーで描いているので、これが上限となるか(後考に俟つ)。これは京都にいたため、最新の人脈を活用できて、材料を取り入れることが出来たからである。30本の作品の絵の具代だけでも、現在の価値で1,500万円以上という試算も出ている。これは若冲が錦街の地主で、その地を租(か)したりして、潤沢な資金を持っていたから、可能であったと云えるだろう。

 

IMG_0193 - バージョン 2

◯作品を依頼するものは、必ず米一斗を作画料として持参したという。これは玄米である。白米にすると、米虫に喰われてしまう。そのため、玄米のままで保存し、食べる直前に精米した。一斗は、18リットルであるから、石油缶一つの容量ということになる。

何か御存知の方がいれば、御教示いただきたい。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator 浮世絵・酒井好古堂   [http://wwww.ukiyo-e.co.jp]

[浮世絵学]文化藝術懇話会    浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14

電話03-3591-4678 



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